今野真二『辞書からみた日本語の歴史』(3)

10月16日(木)晴れ

 この書物の第4章は「西洋との接触が辞書にもたらしたこと――明治期の辞書」と題されている。日本の辞書は伝統的に漢語と中国語の辞書として作られてきたが、幕末に入ってオランダ語、さらに英語などの西洋の言語との接触が始まり、それがまた新しい辞書作りにつながっていく。江戸時代にはすでに蘭学者たちの手でオランダ語と日本語の対訳辞書が作成されていたが、それは一方で既に存在した中国語と日本語の対訳辞書の枠組みを継承しており、そのことが蘭仏辞典を参考にして蘭和辞典を作り、さらにそこから英和辞典をつくるというように時代の要請に機敏に対応する素地を作っていたと今野さんは考えている。

 英語を母語としない日本語話者が英語を理解するためには、英和辞典が必要となるが、その一方で日本語を母語といない英語話者が日本語を理解するためには和英辞典が必要となる。その和英辞書を初めて作ったのがアメリカ長老教会派の宣教医ヘボン(1813-1911)であった。1859年に来日した彼はその夫人や他の宣教師たちと協力してキリスト教の普及に努めただけでなく、医療活動、教育活動を行い、その教育活動は現在のフェリス女学院、明治学院に結実し、また和英辞書である『和英語林集成』の第3版で採用したローマ字による日本語の表記は「ヘボン式」として今日でも広く用いられている。(現在、毎週火曜日にNHKカルチャーラジオの「歴史再発見」の時間で明治学院大学の大西晴樹教授が「ヘボンさんと日本の開化」という連続講義を行っているので、興味のある方はお聞きください。) 今野さんはヘボンがどのような意図で、誰を対象にこの辞書を編纂したかについて詳しく述べず、そのローマ字表記の特徴と、その後の『言海』と対照して、見出し語として選ばれた語彙の性格について考察しているだけで終わっている。おそらく、今後さらに深い研究が進められるのだろうと思う。ただし、この辞書が欧米人によって編纂されているため、それまで日本でつかわれていた辞書とは違って、見出し語について必ず語釈をつけていることがその後の国語辞書に大きな影響を及ぼしたことを強調している。

 ヘボンの協力者でもあった高橋五郎(1856-1935)によって1888(明治21)年に『[漢英対照]いろは辞典』が刊行されている。西洋の辞書がアルファベット順に見出し語を配列していることから、日本語でもいろは順、あるいは五十音順に見出し語を配列するという発想が出てくることは自然の成り行きであるが、明治20年ごろまではいろは、五十音のどちらの可能性もあった。この辞書は、いろは順に見出し語を並べ、「見出し項目+品詞分類+漢字列+語義説明+英語」という構成をとっている。また当時としては珍しく横書きである。この辞書についても今野さんは深く検討していないようであるが、話し言葉の語彙の比重が比較的多いことを指摘して、それが『和英語林集成』と共通する性格ではないかと論じているところが注目される。

 最後を飾るのが日本における近代的な国語辞書の嚆矢とされる『言海』である。この辞書は1889(明治22)年から1891(明治24)年にかけて4分冊に分けて刊行された。編集者は大槻文彦(1847-1928)で当時活躍した多くの人々と同様に、漢学を身につけ、さらに洋学を学んだ人物である。『言海』をめぐっては、今野さんの『「言海」を読む ――ことばの海と明治の日本語』(角川選書)などの他の著作に詳しく論じられていて、この部分はそれらの要約という感じがある。『言海』は出版当時の「普通語」を集めて編纂された辞書であるというが、その普通の意味を詳しくみていく必要がある。『言海』では現在の辞書に比べて「書きことば」の比重が大きく、それはこの時代の読者の「文学生活」を投影しているためではないかと論じている。また、この辞書が見出し項目となっている語の発音を示している点に、新しさと欧米の辞書の影響を認めている。
 「日本は西洋と接触することによって、西洋の辞書を知った。西洋の辞書は明治期になって、日本の辞書のはっきりとした模範となったと言えよう。明治20年ごろになって、それは具体的な辞書として結実してくる。明治24年に完結した『言海』はそうした辞書の代表格でもあり、後の時代に影響を与えた辞書のチャンピオンでもあった」(184ページ)と本文は締めくくられている。

 「おわりに――辞書が教えてくれたこと」の中で、今野さんは伝統的には、日本語の辞書は何かを調べるためのものではなくて、「個人の読書世界を体現するもの」(185ページ)であった時期があったという考えを述べている。辞書そのものだけでなく、その作り手の考えも、読む人々の境遇や辞書に対する要求も、辞書の利用の仕方も時代によって異なり、逆にいえば辞書の歴史をたどることによって、いろいろなことが分かってくると今野さんは言う。辞書の内容や体裁にこだわっての詳しい分析は読むのが面倒ではあったのだが、実際に、この本を読んで多くのことを知ることができたし、それ以上に日本語をめぐっていろいろな興味を抱くことができた。日本語に興味を持つ人に取って読む価値のある書物だと思う。
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