柳田国男『毎日の言葉』

2月8日(金)曇り後晴れ

 柳田国男『毎日の言葉』(角川文庫)を読み終える。1年365日にゆかりのある名言をまとめた書物かと思ったのだが、そうではなく、我々が日常に使う言葉について、民俗学というよりも方言学(というほどの体系性がないと言えばそれまでであるが)的な知見を踏まえて書いた書物である。朝、起きてから、夜、寝るまでに経験する生活上の様々な謎に答える学問を民俗学というか、人類学というか、まあそれはどうでもよい。それを知的な探求の対象とするところが重要である。さらに注目すべきは日常の言葉を見直し、それを大事にする、日常の生活の中で適切に使っていくことが新しい社会の建設のために重要であると柳田が考えていることである。そのような努力を特に女性相手に呼び掛けているところも注目される。

 書中では「ありがとう」、「すみません」、「もしもし」というような言葉にどのような意味と背景があるかが独特の考察を踏まえて、独特の文章で綴られている。のんびり読んでいると、「ありがとう」というべきところを「今に東京でも『どうも』だけで片付けるようにならぬとも限りません」(14ページ)という予見に出会ったりする。この予見が戦後すぐに時期になされたものであることを考えると柳田の洞察の鋭さに驚く。

 その一方で「ボク」という言葉をめぐり「人が自分のことをボクという日本の言葉は、今にきっと使う人がなくなるであろう。私はそれを予言することができる。・・・その代わりにどんな言葉が生まれてくるだろうか」(148ページ)と自信満々に述べていたのは正しい見通しであったのだろうか。まあ、確かに私は文章でも会話でもボクとは言わないが、これは柳田に引きずられた部分があることも否定しない。

 柳田の知的な業績をどのように評価し、継承するかをめぐり注目してよいのは、この書物に2つの解説が掲載されていることであろう。1964年の時点で鎌田久子はこの書物の啓発的な性格を強調しながら新しい日本の社会の建設のために「思うことが言える、意志を強く述べることができる人になる」(167ページ)ことが大事だという柳田の意思を継承することの重要性を訴え、今回の新版に際して赤坂憲雄はこの書物の学問的な孤立性を指摘しながら、「柳田国男という知の孤立はしたたかに深いのである」(173ページ)と新たな謎を投げかけている。この2つの解説の落差からあらためて彼の志を孤立させてきた我々の知のありようを問い直してみるべきではなかろうか。
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