『太平記』(13)

10月9日(木)晴れたり曇ったり

 元徳3(1331)年、後醍醐天皇を中心とする倒幕計画が露見し、関係者に対する鎌倉幕府側の厳しい追及が続いていた。この年8月、天皇は元号を元弘と改めることとされ、その旨の証書を鎌倉幕府にも下されたが、幕府は認めようとせず、天皇とその側近による倒幕計画を追求するために使者を上洛させようとした(改元については、『太平記』で触れられていない)。使者たちは天皇を流刑に、倒幕の急先鋒であった大塔宮尊雲法親王を死刑にすることを求めようとしたが、その内容が事前に漏れ、比叡山の尊雲法親王の献策により、天皇は奈良に逃れ、奈良には幕府に近い勢力が存在するために、さらに場所を変えて笠置山に臨幸される。また幕府側の目を欺くための天皇の身代わりとして大納言の花山院師賢が比叡山に登って、尊雲、尊澄の2人の法親王が率いる比叡山の僧兵たちが守りを固めることになった。

 六波羅から派遣された幕府方の兵士たちが、琵琶湖の南岸から北上して近づいてきたという知らせを受けて、比叡山の血気盛んな僧兵たちは唐崎の浜に出て待ち構える。しかし、その数は300人足らずであった。これを見た幕府方の武将の1人である海東将監が敵は今のところ小勢であり、援軍が来る前に打ち負かそうと飛び出して3人の敵を斬り伏せたが、比叡山側の快実という僧侶が出てきて海東に一騎打ちを挑み、その首を奪う。その様を眺めていた海東の子どもが父の敵と挑みかかるが、返り討ちにあって見るものの涙を誘った。さらに海東の従者たちも快実に挑みかかるが、蹴散らされる。
 
 幕府方の有力な武将である佐々木三郎判官時信が配下の武士たちに「御方討たすな。続けや」と命じたので、さすがの快実も危なくなるが、比叡山方も新しい兵力を動員して応援する。唐崎の浜は東の方には琵琶湖が広がり、西の方には深い泥田があって、その間に平らな砂浜がずっと続いているという地形である。このため、兵力を後退させて戦うということができず、前線で戦っている兵はいつまでも戦い続けることになる。その間に、比叡山方は幕府方の退路を遮ろうと琵琶湖に舟を浮かべて大津の方向に向かわせる。

 六波羅勢はこれを見て、劣勢になったことを知り退却しようとするが、土地の地理に疎く、逆に比叡山側は地元なのでよく知っており、幕府軍は壊滅的な被害を与えられる。大将格の佐々木時信もあわや戦士という場面があったが、配下の武士たちが必死で守ったために命長らえて京都に戻ることができた。大軍とは言え、統制がとれない幕府軍が地の利をもつ比叡山の大衆に惨敗するという予想外の結果となった。

 これまで比較的平和で安定した状態が続いていたのに、突然に合戦という思いがけない事態が生じたので、人々は不安におののいた。そんな中で、倒幕に心を寄せる者たちが持明院統の上皇以下を奪うこともあるかもしれないと、27日の午前中に後伏見上皇、東宮の量仁親王(後の光厳院)が持明院統の上皇御所である六条殿から六波羅の北探題の庁舎に遷られた。付き添った公卿たちは、今出川前左大臣兼季、三条大納言通顕、西園寺大納言公宗、日野前中納言資名、坊城宰相経顕、日野宰相資明であり、皆、衣冠をつけただけの略装であった。また警固の武士たちは全く服装がそろっておらず、人々は突然の事態の変化に非常な驚きを覚えた。
 「前」という官職が少なくないのは、これらの人々が持明院統の花園天皇、あるいは後伏見天皇のもとで重用され、大覚寺統の後醍醐天皇のもとでは政権から遠ざけられていることを示すものであろう。なお、持明院統の皇族には他に、花園上皇、また量仁親王の弟宮たちがいらしたはずであるが、その動きについては触れられていない。それから大覚寺統の嫡系である康仁親王も動静不明である。

 山門の大衆は唐崎での合戦で勝利を収めたことに気をよくしていた。そこで、西塔を皇居としていることは本院にとって面目の立つことではない。先例を見ても本院の房舎にお遷りあるべきであると申し入れ、西塔側もやむなくこれを了承、天皇にその旨申し上げようと参上すると、折節、深山颪が吹きつけて御簾を吹き上げてしまい、中にいるのが師賢であることが露見する。このため多くのものが失望・落胆して去っていく。師賢、四条中納言隆資、二条中将為明はひそかに比叡山から脱け出て、笠置の後醍醐天皇のもとに向かう。
 替え玉だということに気付かれたのは不運であるが、天皇のお顔がどのようなものであるかを知る者はそんなにはいないはずで、逆に師賢の方は多くの人に顔を知られていたということであろうか。

 比叡山の上林坊の阿闍梨豪誉は武家方に心を寄せていたので、大塔宮の執事である安居院中納言法印澄俊を生け捕って六波羅に届ける(歴史的な事実としては、澄俊は妙法院宮尊澄法親王の執事であったとのことである)。かくして、比叡山に立てこもっていた大衆は次々に六波羅に降参していった。

 妙法院宮と大塔宮はその夜はまだ比叡山に留まっていらしたが、ひとまず落ち延びて、天皇の消息も確かめてみようと考えられて、29日の夜にまだ大勢が立てこもっているように見せかけるため、かがり火を多くの場所で焚かせたまま、琵琶湖に舟を浮かべ、まず石山に落ち延びられた。お二人が一緒にいられるのは計略としては浅はかであり、妙法院(尊澄法親王)は高貴な身の上で歩行もはかばかしくできないので、ここで別れることに決められる。妙法院は笠置に、大塔宮は十津川の奥を目指されることになる。
 森茂暁さんは『太平記の群像』の中で「尊澄が根っからの文人タイプなのに比べて、尊雲はまことに武人タイプである。兄弟でこれほど性格の異なるケースは、他にあまり多くない」(群像、40ページ)と父母を同じくする2人の親王の性格を対照的に評価されているが、性格が対照的であったからこそかえって仲がよかったのかもしれない。『太平記』の作者は兄弟の別れを、「竹園連枝の再会も、今はいつをか期すべきと、御心細く思し召されければ、互ひに隔たる御影の隠るるまでに顧みて、泣く泣く東西へ別れさせ給ふ、御心の内こそ悲しけれ」(131-2ページ)と哀切に描き出している。なお、竹園連枝というのは皇族の兄弟のことだそうである。

 作者は尊雲法親王の勧めに従って後醍醐天皇と師賢らの側近が実行した計略が失敗したとはいうものの、これが漢の高祖が楚の項羽と戦って滎陽に包囲された際に、忠臣の紀信が身代わりになって主君を助けた故事を前例とするものであるとして、「和漢時異なれども、君臣体を合はせたる謀、誠に千載一遇の忠貞、頃刻(きょうこく)変化の智謀なり」(134ページ、日本と中国とで時代は異なるが、君主と進化とが一心同体になった謀であり、まことに千年に1度のまれな忠節と、時機に応じて変化する巧みな謀である)と称賛の言葉を述べて2巻を締めくくっている。

 失政により幕府への不満が高まっているとはいうものの、圧倒的な軍事力をもつ鎌倉・六波羅方に対して、都を離れた後醍醐天皇や比叡山から去った大塔宮はどのような戦いを展開していくのか。今後の物語の展開については、また次回以後に記すことにする。
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