アガサ・クリスティー『シタフォードの謎』

2月7日(木)朝のうちはまだ曇っていたが、晴れ間が広がる。温暖。

 アガサ・クリスティーの『シタフォードの謎』(The Sittaford Mystery)は1931年に発表された、彼女の11冊目の長編小説で、短編集を含めると14冊目となる。それまで彼女が書いたのはポアロの活躍を描く作品が5篇(と短編集1冊)、トミー&タペンス1篇(と短編集1冊)、マープルが1篇、短編集『クイン氏の事件簿』、ノン・シリーズ3篇(うち2篇はバトル警視が登場する)であった。(この他にウェストマコット名義での長編小説が1篇ある)。この作品はノン・シリーズということになる。

 海軍大佐ジョン・トレヴェリアンは退役した時にイングランド南西部のダートムーアのシタフォードという小さな集落に土地を買い、自分の住まいを建てるとともに小さな別荘を立てた。そのうち1軒は昔からの親友であるジョン・バーナビイ少佐の住まいとし、他の別荘も順に売れて、おそらくは世の中を離れて暮らしたいと思っている人々が住みつくようになっていた。トレヴェリアン自身の山荘をウィレット夫人という一人娘のある未亡人が借りたいと言ってきたので、彼自身は近くのエグザンプトンという町に小さな家を借りて移り住み、山荘にはウィレット夫人が住むことになった。ウィレット夫人は客好きで、ある雪の夜、別荘に住む人々を招待し、そこで交霊術のゲームをしていたが、突然殺人発生という不気味な占いが現れた。被害者はトレヴェリアンで、凶行時刻は占いが出た時刻に符合するものであった。大雪のなか、彼の安否を気遣ったバーナビイがエグザンプトンに向かう。果たして、トレヴェリアンは何者かに殺害されていた。

 エクセター(デヴォンの州都)から派遣されたナラコット警部を初めとする警察の捜査により、トレヴェリアンのもとを彼の遺産の受取人の1人であるジェームズ・ピアソンが訪問していたことが分かり、彼には動機らしきものもあったので、容疑者として逮捕される。彼の婚約者であるエミリー・トレフュシスは無実を信じ、別の用件でエグザンプトンを訪れ、殺人事件に出遭った新聞記者のチャールズ・エンダービイとともに、真犯人を探そうとする。

 この作品で注目されるのは、前年に没した推理小説の大先輩であるサー・アーサー・コナン・ドイル(Sir Arthur Conan Doyle,1859-1930)についての言及があることである。エミリーに対しエンダービイが言う台詞「交霊術の会も変ですよ。僕は新聞にそのことを書いてやろうと思っているんです。…アーサー・コナン・ドイル…なんかから意見を集めましてね」(鮎川信夫訳、122-3ページ)。ドイルが心霊学の研究に没頭し、そのための著書も何冊か発表していることは周知の事実である。また内容をめぐっても舞台がデヴォンに設定されるなど、ドイルの『バスカヴィル家の犬』と共通する要素をいくつか含んでいる。両作品ともにダートムーア刑務所(実在の刑務所である)とそこからの囚人の脱走が物語の展開に絡む。『バスカヴィル』にはステープルトン、『シタフォード』にはライクロフトという博物学者が登場する。さらにウィレット夫人の一人娘の名はヴァイオレットで、シャーロック・ホームズのなかに4回登場する名前である(「ぶな屋敷」のヴァイオレット・ハンター、「孤独な自転車乗り」のヴァイオレット・スミス、「ブルース・パーティントンの設計図」のヴァイオレット・ランズベリー、「有名な依頼人」のヴァイオレット・ド・メルヴィル)。これは女性の名前のなかで一番多いはずである。なお、ヴァイオレットという名前の女性が登場するホームズ作品にはすべてThe Adventure of…という題名がついている。

 ナラコット警部という名前はドイルの晩年の冒険小説である『マラコット深海』を連想させると勘繰ってみたりもしたが、NarracottとMaracotでは綴りに相当の違いがある。ライクロフト(Rycroft)がシャーロック・ホームズの兄であるマイクロフト(Mycroft)からの連想だという方がありそうな推測である。

 別荘の住人のなかではライクロフトがエミリーに協力を申し出、ほとんど家の外に出ないカロリン・パースハースも彼女に同情を寄せる。この奇妙に鋭い老婦人はクリスティーの他の作品にも見られるタイプの人物である。エミリーはジェームズの婚約者であるが、捜査を進める過程でエンダービイも彼女に惹かれてゆく。彼女はどちらの男性を選ぶのかという興味も生まれる。ロマンスがらみの捜査ということになると、これはクリスティーの得意とするところである。さらに、トレヴェリアンのもう1人の甥であるブライアンもシタフォードにやってきていることがわかる。登場人物のアリバイが崩れたり、思いがけないところから相互の関係が明らかになったりする。

 デヴォンの州都エクセターには出かけたことがあり、作品の描写のなかに自分の見聞を通じて推測できる部分があって読んでいて面白い。デヴォンはイングランドのなかでは気候温暖な地方なので、大雪という設定は不思議だが、クリスティーはデヴォン出身なのでそれなりに経験を踏まえているところがあるのだろう。全体として登場人物が多すぎて、読者としては追い切れないところがあり、『バスカヴィル』に比べれば作品としての完成度は劣る。それでもこの作品をクリスティーのドイルへの弔辞として読むことは可能だし、実はこの作品の幕切れに、ドイルを継承しながらも独自の道を開拓しようとするクリスティーの隠された野心を読みとることもできる。(どういうことかは読んでのお楽しみということにしておこう。)

 この作品を私は鮎川信夫訳(創元推理文庫、1965初版、私の手元にあるのは1979年の30版)で読んだ。鮎川は「クリスチィ」と表記しているが、このブログでは「クリスティー」で統一することにする。他に田村隆一による『シタフォードの秘密』(早川書房)、能島武文による『ハーゼルムアの殺人』(角川書店)という翻訳もあるようである。原文は読んでいないが、鮎川訳には翻訳だけ読んでいて明らかにおかしいと思われる個所がある。鮎川訳の問題点については古賀正義『推理小説の誤訳』(日経ビジネス人文庫、2008)でいろいろ指摘されているが、問題点をめぐっては田村訳も容赦されていない。鮎川、田村ともに有名な詩人ではあるが、それとこれとは別だということのようである。翻訳以前に「プリマウス」とか、「パデングトン」とかいう地名の表記は頂けない。「プリマス」、「パディントン」とすべきである。そういうことを書きながら、依然としてホームズの翻訳についてはかなりルーズなままの記述になってしまったままであることをお詫びする。

 
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