諸星裕 鈴木典比古『弱肉強食の大学論 生き残る大学、消える大学』(9)

10月2日(木)曇り

 この書物の第5章は「キーワードは『多様性』と『リベラルアーツ』」と題されている。大学が困難に直面する中で生き延びるための鍵がこの2つの言葉に込められているというのである。

 初めに、諸星さんが鈴木さんが理事長兼学長を務めている国際教養大学について、「これからのグローバル化に対応する人材育成には、『雑木林型』教育が必要だとのご指摘ですが、その方針のもとでますますグローバル人材育成の成果を上げようとしているのが国際教養大学です」(188ページ)として、その教育の方針と、これまでの成果について質問している。これに対して、鈴木さんはまず「大学名にもなっている『国際教養――インターナショナル・リベラルアーツ』こそ、この大学のミッションであり理念であるわけです」(189ページ)と答えて、大学の教育についてさらに具体的に述べている。「キャンパスが秋田市とはいえ、人里離れた森の中にありますし、そこに寮もありますから、勉強と日常生活が完全にリンクしています。大学は勉強が基本であり勉強がすべて。ここでは環境的に遊びには向きませんから、学生たちはよく勉強します。学生の本分を尽くしていると言えるでしょう。教員だけでなく、職員も英語で留学生に対応している。そういう国際的な雰囲気が印象的でした」(192ページ)。気になるのは、最後の一言、「雰囲気が印象的でした」と、他人事のように述べているところで、「雰囲気があります」となぜ自分のこととしていっていないのか、ということである。この大学のモデルとしてアメリカのリベラルアーツ・カレッジが念頭に置かれていたようで、「東京や大阪のような大都会の中、あるいは都会の近くにキャンパスがあったら、こういうユニークな教育をしても効果は薄かったかもしれません。アメリカのリベラルアーツの大学は、都会を離れたところで寮生活をしながら少人数教育を行っていますが、それに近いのでhないかと自負しています」(1192ページ)とも述べている。ただ、寮生活がどのようなもので、昔の旧制高校のような寮生の自治が認められているのか、寮生活に不適応を起こすような学生が出た場合の準備もできているのだろうかというような点についても触れておく必要があるのではないかという気がする。

 鈴木さんはさらに、「リベラルアーツ」(自由学芸)ということについて、「古代ギリシャの教育原理である『自由な人間になるための全人的な技芸の習得』に由来しているのですが、自分自身を自由にする『リベラル』と、その上で新しい自分を作っていくための技芸『アーツ』を合わせて「リベラルアーツ」と呼んでいるわけです」(193ページ)と説明する。この説明は多分、誰かの受け売りだと思うので、その出典を突き止めるまで論評するのを避けておきたいが、リベラルアーツというのが自由人のための教養であったというのはその通りである。ただ、ギリシャの場合、自由人というのは奴隷と区別されて生れつきのもので、自由人はもともと自由人なのであり、ある程度の財産とか教養を身につければもともとは奴隷であっても自由な市民になれるというのはローマの制度であったのではないかと思う。ただ、これは議論の展開とはあまり関係がない話であるかもしれない。

 諸星さんは「日本の大学教育は特にそうでしたけれど、長い間、高度な教養をベースした『大きな人間』を作る教育よりも、専門学部で専門知識を蓄えた『すぐに役に立つ人間』をつくることに傾注していました。そして、それが正しいと思い込んでいました」(193ページ)という。これはもう少し実証的な限定をつけなければ成立しない話で、日本の大学、特に国立の古い大学は工学部を中心に殖産興業を意図した人材育成のための定員を多く設けてきたが、これはアメリカの州立大学の多くの部分と共通することであって、近代化の過程では当たり前のことである。また日本では旧制高校が教養主義的な教育を行ってきた伝統があり、それがその後の日本の歴史においてプラスに働いたかマイナスに働いたかについての論争が展開されてきたことも見逃せない。リベラルアーツというが、ヨーロッパの伝統的な自由学芸を批判的に継承してアメリカの大学のリベラルアーツが出来上がってきたわけで、日本においてもその中身についてきちんと議論をしていかないと、シェークスピアを原文で読めるけれども、源氏物語は読めないなどという人間が出来上がる恐れがある。

 鈴木さんは「世界がなぜ、古代ギリシャ以来2500年を経て、再び『教養教育』『全人教育』に向かっているのか、ということです。それは21世紀のグローバル社会が、知力、体力、倫理観など豊かな精神性なども兼ね備えている、いわば『全人力』を身に付けた人材を求めているからです」(194ページ)といっているが、なんとなく空々しい。現実にグローバルな規模で活躍している人々がどこまでそういった「全人力」を身につけているかを考えれば、わかることではないかと思う。

 以前、大学問題の専門家である先生と話をしていて、私が大学というのはある程度文明が発展してくればどのような社会においても見られるものではないかといったところ、そうではなくて、ヨーロッパの中世に源をもち、大学としての自治と学問の自由を守っている機関だけが大学の名に値するのだと言われて、大いに恐れ入った記憶がある。グローバルとか、ギリシャとか、目をくらますような言葉や概念を使って、大学が守り育ててきた根本的な理念を掘り崩すような議論を展開するのであっては困るのである。リベラルアーツの理念は大事なことであるが、その担い手の自治や自由についての考察も必要であろう。諸星さん、鈴木さんの議論とは逆に、大学とは別のもっと専門的な教育を行う高等教育機関を充実させることが必要であるという議論を展開する論者もいるので、仲間内での談笑も結構であるが、専門教育を推進すべきだという議論を展開している人たちとの真剣な対論も行っていく必要があるのではなかろうか。

 今回で、この本の紹介を終わらせるつもりだったが、終りまでたどり着くことができなかった。次回は、さらに残りの部分を論評し、この書物に対する私なりの意見もまとめていくつもりである。 
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