『太平記』(12)

9月29日(月)晴れ

 後醍醐天皇による倒幕の計画が露見し、謀議に加わった僧侶・公卿たちが処罰・処刑されただけでなく、鎌倉幕府による追及の手はついに天皇とその皇子たちに向かってきた。

 嘉暦2年(1327年)に奈良の興福寺で内紛が起き、関係する建物だけでなく、寺の主な建物のほとんどが焼失してしまった。また元弘元年(1331年、史実では2年だそうである)に比叡山で火災が起きて、東塔と西塔の少なからぬ建物が灰燼に帰した。何か良くないことが起きる前兆ではないかと人々が心配している中で、同じ年にはさらに大地震が起きた。朝廷につかえて占いを行う人々が占ってみると「国王位を易(か)へ、大臣災ひに遭ふ〕という結果が出る。近いうちに想像もつかないことが出来するかと人々は恐れおののいていたが、そうこうするうちに鎌倉からの2人の使者が3,000余騎の弊を率いて上洛するという情報が入り、事情は不明なまま、都の近くの武士たちも集まってきて、都は不穏な空気に包まれた。

 2人の使者が京都に到着して、まだ幕府の意向をはっきり伝えようとする前に、どのようにして情報が漏れたのかわからないが、このたびの鎌倉幕府からの使者の上洛は、天皇を遠国に移し、大塔宮を死罪にするためであるという情報が比叡山延暦寺に知らされてしまった。それで8月24日の夜に、比叡山の大塔宮からひそかに後醍醐天皇のもとに使いが送られ、天皇に次のように進言した。鎌倉の使いの趣は、内々に聞くところでは、天皇を遠くに流刑し、大塔宮を死罪にしようとするものである。今晩、すぐにならの方に潜行されるべきである。その間の時間稼ぎとして、幕府の使いの目を欺くために、側仕えの1人に天子の称号を許して、比叡山に登らせ、天皇は比叡山に行かれたと発表すれば、敵軍は比叡山に向かって合戦を行うことになるだろう。比叡山の僧兵たちは自分たちの山を大切に思うゆえに、必死で防戦するだろう。幕府側が攻めあぐねて、数日間がたつうちに、伊賀、伊勢、大和、河内の朝廷に心を寄せる武士たちが京都に攻め寄せるだろうから、幕府側も引き返さざるを得なくなるだろう。幕府軍を亡ぼすのにそれほどの時間がかかるとは思えない。今はこの作戦を取るしかないと申し送られた。これを聞かれた後醍醐天皇は「ただあきれさせ給へる(途方に暮れる)ばかりにて、何の御沙汰にも及ばせ給はず」(116ページ)。

 そうこうするうちに、尹大納言師賢、万里小路中納言藤房、その弟の季房など数人のものが宿直のため近くにいたのを呼び寄せて、相談を持ち掛けると、藤房卿が「逆臣、君を犯し奉らんとする時、暫くその難を避けて、還つて国を保つは、前蹤皆佳例にて候ふ」(116ページ)と中国の故事を引いて、進言に従うことを勧める。本当にこういったのかどうかはわからないが、藤房が賢明で決断力のある人物として描かれていることは注目しておいてよい。そして、夜ももう遅いのでと、天皇が乗られる牛車を女車のように偽装し、御所を出ていく。警備の武士たちが問いただすと、中宮が実家である西園寺家に夜ひそかにお帰りになるのだと言いつくろって無事脱出する。こういうこともあろうかと心の準備ができていたのであろうか、源中納言具行、按察使大納言公敏、六条少将忠顕が三条河原で追いつく。
 ここで怪しげな張輿に乗り換えられることになったのだが、輿を舁くものがいないので、随行していた中で身分の低いものが舁くことになる。付き従う公卿たちは皆、衣冠を解いて、折烏帽子に直垂を着て、奈良の七大寺詣でをする青侍たちが女性を護衛しているという風に偽装して進んでいく。木津の石地蔵、現在の京都府木津川市山城町の泉橋寺を過ぎたあたりで夜が明けた。ここで朝食をとり、奈良の東南院という寺に到着した。

 東南院の聖尋僧正は天皇に忠義の心をもつ僧であったので、このことをすぐに表ざたにせず、奈良の僧侶たちの様子をうかがってみたところ、東大寺の十二院家の1つである西室の顕宝僧正が北条氏の一族で権勢をふるっていたので、他の僧侶たちが天皇に味方する様子もなく、奈良に皇居を設けるのは危険であるという判断をする。そこで京都府相楽郡和束にある鷲峰山金胎寺(こんたいじ)に行幸されるが、あまりに山深いところにあるので、同じ相楽郡の笠置山に移られた。

 一方、尹大納言師賢は三条河原まで後醍醐天皇に同行したが、大塔宮の献策により天皇の身代わりを立てるということになって、九条河原東にあった法性寺で天皇のお召し物を着用し、玉飾りのある天皇のための輿に乗って比叡山へと向かった。『太平記』にいくつかの異本がある中で、流布本では法性寺ではなく、岡崎にあった法勝寺となっているそうである。常識的に考えれば、九条まで歩いてまた北に引き返し、比叡山に上るのは大変で、法勝寺で北に向かうほうが楽である。しかし、師賢には後醍醐天皇とできるだけ長く一緒にいたいという気持ちがあったのかもしれないし、都の中を長く歩く方が敵の目を欺くのに都合がいいという計算も働いたのかもしれない。四条中納言隆資、二条中将為明、中院左中将貞平らがこちらは衣冠を正しく着用して、天皇の供奉にふさわしい様子に見せている。

 比叡山の西塔の釈迦堂を皇居として、天皇が比叡山に臨幸されたと発表したので、延暦寺、鎮守の日吉社だけでなく、大津をはじめ、周辺の地域から大勢のものが集まってくる。比叡山の中にも幕府に心を寄せるものがいて、六波羅に情報が伝わり、六波羅の2人の探題もこれを聞いて驚き、御所に出かけるともぬけの殻である。そこで比叡山を攻めようと山の西側に5千余騎、東側に7千余騎の軍勢を派遣する。比叡山の側では大塔宮を中心に約6千人が守りを固める。相違を脱ぎ捨てて鎧兜に身を固める。「垂迹和光の砌(みぎり)、忽ちに変じて、勇士守禦の場となりぬれば、神慮もいかがあらんと、測り難くぞ覚えたる」(122ページ、仏が威徳を和らげ隠し、神として現れて衆生を済度する場所であるはずの日吉社が勇士たちが防備を固める場となったので、神慮はどのように及んでくるのか予測しがたいものと思われた)と、作者は多少の不安を交えて合戦前の状況を記している。

 この段階で、幕府の政治に不満をもつ人々は多いが、その勢力を恐れて行動に立ち上がろうとしていないものが大半であることが見て取れる。大塔宮の戦術は、味方となるべき人々の数を過大に評価しているところがあり、後醍醐天皇が奈良に皇居を構えることができなかったことからもそれは明らかであるが、その一方で彼だけが現実的な作戦を立てたということも否定できない。次回は、比叡山をめぐる攻防についての『太平記』の語りを見ていくことにしたい。
スポンサーサイト

トラックバック


この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

ケノーベルからリンクのご案内(2014/09/30 09:23)

木津川市エージェント:貴殿の記事ダイジェストをGoogle Earth(TM)とGoogle Map(TM)のエージェントに掲載いたしました。訪問をお待ちしています。

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

プロフィール

Author:tangmianlaoren
FC2ブログへようこそ!

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR