ダンテ・アリギエリ『神曲 地獄篇』(10)

9月28日(日)朝のうちは雲が残っていたが、その後晴れ渡る

 ダンテはウェルギリウスに導かれて、地獄の第6圏の異端者が封じられている石棺を見ながら進み、異端エピクロス派の人々がこの中に入っていることを聞かされる。彼らの話声を聞いた死者が声をかけてくる。

「トスカーナの人よ、かくのごとく気高く話しつつ、
確かな足取りで生きながらにして火の都を進む君よ、
この場所に留まりたまえ。

君の言葉は、君がかの高貴なる祖国の
生まれであることを明らかにしている。
その祖国に対し、我はおそらくは禍々(まがまが)しい敵であった」。
(154ページ) 話しかけてきたのはファリナータと呼ばれたマネンテ・デッリ・ウベルティ(?-1264)であった。ダンテより1世代前のフィレンツェの皇帝党の領袖である。フィレンツェは言うまでもなくトスカーナ地方の中心都市で、ダンテはこの叙事詩をトスカーナ方言で書いている。宗教的な信念とは別に、自分たちの言葉への愛を感じていい部分かもしれない。
 彼らの時代、西欧全体の支配をめぐって教皇庁と神聖ローマ帝国の二大政治(宗教)権力(権威)が争い、北・中部イタリアでは両派の間で都市国家が群立し、争っていた。フィレンツェでも皇帝党と教皇党の対立が続き、皇帝党の影響力が一掃された後は、教皇党の中でダンテの属していた白派と黒派の対立が続いた。 もともとエピクロス派の哲学はヘレニズム時代からローマ時代にかけて影響力をもった考え方で、キリスト教の内部の異端というわけではない。ここでダンテは中世的な理解に従ってアヴェロエスの解釈したアリストテレス哲学を信奉する人々をエピクロス派と呼んだのである。「その思想は個としての魂の永続を否定し、死後、魂は個的特徴を失い神のもとに帰り、人間は地上で己の力により至福を手に入れられると考え」(540ページの翻訳者=原基晶さんによる解説)るものであった。シチリア王でもあった神聖ローマ帝国皇帝フェデリコ(フリードリヒ)Ⅱ世(1194-1250)は当時西欧よりも進んだ文明をもっていたイスラーム圏における哲学を学んでこのように考え、ファリナータもその哲学の信奉者であったが、敵対する教皇庁は彼らの考えを異端として、厳しく弾圧したのである。エピクロス主義を異端とするのはこのためである。

 ダンテは、中世的に解釈されたエピクロス主義に反対する一方で、敵対する人々を異端として暴力をもって弾圧するやり方にも反対している。そして、同じ地獄に教皇党の領袖であったカヴァルカンテ・カヴァルカンティを置く。フィレンツェの教皇党白派に属して政治的に、また清新体の詩人として文学的にダンテの友であったグイド・カヴァルカンティ(1255-1300)の父親である。彼はダンテの隣に自分の息子がいないことを知り、さらに息子の死を知って嘆く。一方、ファリナータは自分がフィレンツェ市を破壊から守ったことを口にして、自分の子孫たちがやがて故郷の都市に戻る日が来ることを願う。そして市とダンテの運命について、やがて予言が与えられることを示唆する。地獄に落ちても、ファリナータの態度は堂々としたものとして、描かれている。

 さらにダンテは神聖ローマ帝国フェデリコⅡ世と、枢機卿オッタ-ヴィオ・デッリ・ウバルディがここにいると告げられる。宗教的な権威が政治的な権力を求め、政治的な権力が宗教的な権威を求めて血みどろの戦闘に至った事態を断罪し、その首謀者たちを地獄に送り込んでいるのであるが、今日の歴史家たちの多くがフェデリコ(フリードリヒ)Ⅱ世をイスラームとの共存を図った開明的な君主として肯定的に評価していることを考えると、ダンテの評価に多少の疑問も投げかけられるのである。フェデリコはラテン語ではなく、俗語で詩をつくる運動を始めている。ダンテがトスカーナ方言で詩を書いたのもその間接的な影響を受けているわけで、文学史的に見ても疑問に思われることは多いのである。

 ファリナータの言葉に自分の将来への不安を抱き、足取りが重くなってはいたが、ダンテはウェルギリウスに導かれて、地獄のさらに深い谷間へと下ってゆく。
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