諸星裕 鈴木典比古『弱肉強食の大学論 生き残る大学、消える大学』(8)

9月25日(木)雨、一時晴れ間が広がったが、その後また降り出す

 この本の第4章は「なぜ、不勉強な学生を卒業させるのか」と題されている。もちろん、卒業させるべきではないというのが結論である。

 この章の初めで諸星さんは日本の大学では「学生の成績評価が客観的に行われていない」という。これはむかしから言われてきたことで、扇風機で答案を飛ばして8畳の部屋に飛んだから80点、4畳半だと45点などという採点をしていた教師がいるなどと噂された。しかし最近ではGPA(グレード・ポイント・アベレージ)を導入する大学が増えてきた。とはいうもののその運用実態には問題があるという。GPAは学生の成績を一定の計算式で評価するもので、それによって学生の勉学への取り組みを見極め、改善するために役立てようとするものである。GPAが低い学生には履修単位を制限したりするので、学生としては勉学に必死で取り組まなければならなくなるという。「学生は勉強するのが当たり前です。大学は勉強するところですし、教員はそうした学生の学習意欲に十分にこたえられるだけの力量を保持する。すべて当たり前のことなのです」(諸星、160ページ)。

 しかし大学によってはGPAを導入するといいながら、実際には不可になった科目の単位を計算に入れないというような「上げ底」の評価を行っている例が少なくないようである。学生はもとより教員のほうも「履修責任」をきちんと考えていないのではないかという。シラバスは教員と学生の間の履修についての合意であるから、教師には指導の、学生には参加の責任がある。学生は授業料を払っているわけであるから、その元を取れないような授業には抗議してもよいのである。

 学生も教師ももっと熱心に授業に取り組め、学生は勉強しろ、不勉強な学生は卒業させるなというのがこの章の趣旨であり、それはもっともなことではあるが、これまでお二人が論じてきたこととの整合性を考えると、少し疑問に思われるところがある。それは「中堅労働者」になるために、どんな勉強が必要なのかということについての問いが欠けているということである。高校生は大学に進学するために勉強する。しかし、大学生は就職するために勉強するわけではなく、就職活動に走り回っているのが現実である。最近では就職後のことも考えて授業の内容を変えようとする動きもあるというふうに聞いてはいるが、大学で勉強したことがどれだけ就職後役立つかについての問いも必要であろう。もっとも、すぐに役立つ知識や技能は、すぐに役に立たなくなるという言われ方もしているので、その点ではカリキュラムの開発にあたっての説明責任が重大なものになるだろう。お二人は、双方型とか、対話型というような授業の在り方を強調しているが、実技や実習、活動を多く取り入れる授業のほうが、「中堅労働者」になるべき学生にはふさわしいのではないかと思う。アカデミックな、大学の先生になるとか、専門職を目指すとかいう学生向けの授業とは違う授業の開発が進められるべきである。

 それから大学での学生生活を授業だけでなく、クラブ活動や自治会活動も含めて、より広い視野でとらえることも必要なのではないか。企業の側でも運動部での活動歴などを採用の際に重視しているというのはなぜか、考える必要がある。その意味では、企業の側が大学に何を臨むのか、その他の利害関係者の意見とともに聞いていく必要があるだろう。もちろん、大学の勉学は就職のためにのみなされるわけではなくて、教養の形成や市民性の涵養といったことも求められてくる。そういうことを考えると、授業以外の要素はますます必要ではなかろうか。

 この章の最後で話題はデジタルの世界の大学が出現していることに向けられている。大学の在り方が変わろうとしているが、文部科学省は依然としてアナログの世界の大学だけに関心を払っている。これでよいのだろうかと疑問を投げかけている。ただ、オンラインによる教育でどこまでのことができるかはまだまだ疑問であり、この点で文部科学省が慎重なのは悪いことではないと私は思う。諸星さんは、スポーツのグランドは借地でもいいというような規制緩和傾向が出てきたことを歓迎する口ぶりではあるが、大学の中に川が流れていたり、池があったりすることも学生の精神衛生にとっていいことだと思っているから、にわかには賛同しがたい。 
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