桜井哲夫『一遍と時衆の謎 時宗史を読み解く』

9月24日(水)曇り、夕方から雨

 9月23日、桜井哲夫『一遍と時宗の謎 時宗史を読み解く』(平凡社新書)を読み終える。著者である桜井さんは「社会史家としては主にフランスを中心にした西欧近・現代の社会史、思想史を研究し、また社会学者としては現代日本の社会・文化を論じてきた。一方で、…鎌倉時代から続く時宗寺院44代目の住職であり、…宗門に身をおく者として、いつかはきちんと宗祖一遍上人と時宗の歴史について語る責任があると考えてきた」(237-38ページ)という。

 日本の仏教の諸宗派の中で時宗はあまりその存在が顕著ではないし、一遍上人についても同じ浄土教系の宗派の祖である法然上人や親鸞上人に比べてその知名度は低いのではないかと思う。以前、浄土宗の僧侶でもある同僚と話をしていて、私は仏教のたいていの宗派の寺には出かけたことがあるが、時宗と融通念仏宗の寺についてはないといったところ、融通念仏宗なんて知らないぞといわれた。同じ浄土教系の浄土宗の坊さんに言われるのだから、融通念仏宗の影が薄いことがわかるが、それほどでもないにせよ、時宗も影が薄い。神奈川県に住んでいるのだから、藤沢の遊行寺(清浄光寺)に出かけるのはそれほど難しいことではないのだが、なぜか足を運んだことがない。

 しかしその一方で、鎌倉時代から江戸時代にかけて時宗の影響力は決して小さなものではなく、特に文化・芸能の面において見過ごすことのできない存在であったことも確かである。観阿弥・世阿弥というような「阿弥」号は時宗と結びつくものであり、中・近世における阿弥衆の活動の痕跡は見つけることができる。逆にいえば、一時期はきわめて盛んであったこの宗派が近世以後に衰退したのはなぜかということも問題になる。

 この書物は第Ⅰ部「遊行・一遍上人と時衆――いかなる人々なのか…」において、先行研究や大衆的な文学作品の中の一遍上人と時衆についての記述・評価を辿りながら、その実像を探ろうとする。時宗とかかわりのある、あるいはあるらしい歴史上の人物として、豊臣秀吉(彼の「父親」は竹(築)阿弥といった)、観阿弥・世阿弥父子、出雲阿国(時宗の沙弥尼ではなかったかという説がある)、千利休などの名があげられている。このほか、「高野聖」、「毛坊主」などの考察を通じて時衆の社会的な広がりとその痕跡、衰退の理由などについても考察されている。

 さらに第2部「『一遍聖絵」の世界――遊行・一遍上人の生涯」では、国宝『一遍聖絵』をもとに、一遍上人の生涯が語られる。そして「信不信を選ばず」「往生は心品(しんぽん)によらず、名号によりて往生するなり」(157ページ)として、仏を信じる心がなくても、ただ阿弥陀仏の名号を唱え、多くの人々と声を合わせて躍動することで、確信が生まれるのだという一遍の独特の教えへの到達と、教団の活動が辿られている。

 最後に「結びにかえて」では、著者である桜井さん自身の時宗史への関心の歩みが回想されているのだが、その中でも徳川家の出自と時宗との関係、網野善彦の『無縁・公界・楽――日本中世の自由と平和』の中の「正慶2年(1333)、楠木正成の楯籠もる千早城を攻めた幕府軍には、二百余人に及ぶ時衆がつきしたがっていたのっであり、戦死した新田義貞の遺骸を輿にのせて舁いだのも『時衆8人』だったのである」(235ページ)という指摘の引用など興味深い言及が少なくない。

 この書物は一遍と時宗についての概説書というよりも、問題提起の書であり、多くの興味ある事実を掘り起こし、その掘り下げと評価を期待する書物である。ここで紹介したのはこの書物の問題提起のごく一端にすぎないし、またこの書物で取り上げられていないけれども、一遍上人と時宗、遊行寺をめぐっては「小栗判官」伝説のような物語も伝えられていて、その広がりはこれからの探求を待っているといってよいのである。ということで、大きな刺激を受け取った書物であった。とりあえず、時宗のお寺をたずねてみようと思っている次第である。
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