諸星裕 鈴木典比古『弱肉強食の大学論 生き残る大学、消える大学』(6)

9月18日(木)晴れたり曇ったり

 今回は第3章「『こんな大学、来ちゃダメだよ』と言われないために」について論評する。この表題にも違和感がある。誰が、誰に対して、こういうことを言うと想定しているのであろうか。

 8月23日~25日まで3日間にわたり当ブログで取り上げた金田一秀穂さんの『金田一家、日本語百年のひみつ』の中に、こんな個所がある。金田一さんが勤務している大学の広報担当者をしていたとき、オープンキャンパスの責任者を務めた。いろいろな出し物があるうち、「在学生の部屋」というのがあって、実際に学部に通っている学生たちに、入学を考えている高校生が質問するというコーナーである:
「入ってからの勉強が大変ではなかろうか」
 という純真な質問に対して、ゼミの学生は、
「試験なんか超簡単なんだから。楽勝、楽勝」
 それが果たしていい学校であることなのかどうか、大変疑問である。しかも、試験のたびに青息吐息になっている彼らを見ている私としては、どんな顔をしてそんなことが言えるのか、呆れてしまう。
(金田一、49-50ページ)

 学生は他人に対して、自分の大学についてなかなか本当のことを言わないものである。このことは学生としての、また教師としての私の経験からも言える。本当のことではないが、虚勢を張っているところもあるし、願望も入っていて、嘘だとは言いきれない。「大変だけれどもやりがいがある」とか、「難しいけれども面白い」というのが模範解答だろうけれども、そういえないし、言わないのは、(教師の努力が足りないこともあって)実態を反映するものではないからかもしれないし、それ以上に自分の努力の先が見えないからではなかろうか。諸星さん、鈴木さんが言うように、現在の大学の入学者の大部分が<不本意入学>であることは確かだが、それは「こんな大学、来ちゃダメだよ」という表現にならないのではないか。私が昔務めていた大学で、入試の合格者の発表の時に、ある在学生がこんなことを言っていた。「誰が合格したのか、落第したのか、表情を見ても全くわからない。」 合格しても喜ばないし、落第しても悔しがらない。<不本意入学>が見せる表情はそんなものである。(現在では違ってきているかもしれないが…)

 日本の大半の大学は教育に力を注ぐべきであるといい、そのために「教育力のある教員」(諸星、116ページ)が必要であるという。(教員というと、学長は含まれないことになるのではないかと思うが、この本の議論では学長も含まれており、ご両人の教員という語の理解には問題がないわけではない。) さらに諸星さんは「語弊があるかもしれませんが、あくまでイメージとして捉えるならば、入学してきた学生は、いわば原材料。これを4年間の組み立て工程(アセンブリー・ライン)の中できちんとした製品にして社会に出していくのが大学の役割だとすれば、教員はそのラインに張り付いている、いわば職工です」(118ページ)という。

 2つの議論が欠落している。1つは、従来型の大卒者採用システムでは大卒者は原材料でよく、それを製品に仕上げるのは入社してからの社内教育であった。その点が変化しているから、大学教育を変えなければならないという議論ならば理解できるが、変化しているということが実証的に示されていない。もう1つ、大学の先生が熟練工であれというのであれば、熟練工に仕立て上げる大学の先生の養成課程をどうするのかという問題が提言される必要がある。この点については131-2ページにTA制度の活用という提案があるが、それだけでは十分とは言えない。資格審査を厳しくするという考えもあるし、大学についても教育実習を課すという考えもある。資格審査が研究業績中心であるのを再考することも視野に入れるべきかもしれない。

 大学の先生に問われるのは「学生を育てる力」であることを強調し、学生による教員評価を普及させようとする。ただ、すでに書いたが、学生には必ずしも未来が見えているわけではない(そこがいいのだということも言える)し、授業を受けた時点ではあまりピンとこなった事柄が、卒業後、あるいはさらに年をとってから身にしみて分かるということもある。長い目での評価も必要である。それから、師弟関係というのは多様であって、優秀な学生だから指導者に対して従順であるというわけではないし、優秀かつ従順な学生が指導者に好まれるというわけでもない場合がある。教員評価は重要な手掛かりになるが、すべてにはなりえないことも認識すべきである。

 大学の先生は授業を軽視する傾向があるが、ベテランこそ初級編や入門編をと主張している。既にご両人が指摘されてきたように、その入門編や初級編が、その後どのような中級編、上級編、応用編に繋がっていくかの確実な見通しをつけておく必要もあるだろう。そうでないと、大家の授業を受けたことがあると卒業後の自慢話になるだけで終わる可能性もある。もちろん、大家でしかできない良質の教育は貴重である。手元に本がないのでうろ覚えで書くが、経済学者の都留重人がアメリカ留学中にサンタヤナ(1863-1952)の哲学の授業を受け、レポートを提出したところ、彼は(高齢であったにもかかわらず)全員のレポートに対してコメントをつけて返却したという話である。これこそが本物の大学教育だと思ったのだが、大学の先生の側に相当な時間の自由がないとできない話である。日本でも昔、和辻哲郎は1時間の授業をするために15時間の準備をしたという話があるが、このような努力をより一般的なものにすることを求めるのであれば、先生方に対して少なくとも時間的な自由くらいは保証しなければならないはずである。諸星さん、鈴木さんが視野に入れているのは、ここで触れたハーヴァード大学や東京大学よりも卑近なところにある大学であろうが、だとすればどのくらいの努力を求めるのか、もう少し具体的に書く必要があるだろう。

 日本の大学教育について批判すべき点は多くあるし、批判することは自由であるが、問題点についての認識がどの程度の実証に基づいているのか、また自分たちの提言が大学人の心理を読み取ってなされているかを検討する必要がある。いくら正しいことを言っても、相手を怒らせるのは下手な議論である。今回で第3章を終えるつもりだったが、まだ少しの部分を残してしまった。急いで残りの部分と取り組んでいくことにしよう。 
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