近藤史恵『タルト・タタンの夢』

9月17日(水)曇り

 午前中、クリニックで診察を受け、午後、渋谷で映画を見ることにしたが、予定していた作品の開映時刻に間に合わず、別の作品を見ることになった。どんな映画だったかについては、いずれまた。

 9月16日、近藤史恵『タルト・タタンの夢』(創元推理文庫)を読み終える。2007年に創元クライム・クラブの1冊として刊行され、今年の4月30日に文庫本の初版が出て、私が買ったのが7月25日発行と奥付にある6版(初版第6刷とするのが正しいのではないか)であるから、かなり売れている⇒読まれている本のようである。また、続編も書き継がれたり、コミック化もされたりしているようである。それはそれとして、この作家の作品を読むのは私にとってはこれが初めてであるが、これからも読みつづけてみようと思った。

 下町の商店街の片隅にある小さなフレンチ・レストラン、ビストロ・パ・マル。カウンター7席、テーブル5つ。従業員は4人。シェルである三舟は、フランスの田舎のオーベルジュやレストランを転々として修業してきた変人。この店のただ1人のギャルソンで、物語の語り手であるぼくこと高築智行に言わせれば、「なにより『変わった人』である。なんたって、自分の店に<パ・マル=悪くない>なんて、名前をつけてしまうような人」(14ページ)である。長めの髪を後ろで結び、無精ひげなど生やしているが、これはフランスで修業中にMifuneという名前から三船敏郎の親戚なのか(フランス人には三舟と三船の区別がつかないのが幸いした)などと聞かれ、本物のサムライだなどと話題になったことからこのスタイルが定着したのだという。三舟さんのもとでスーシェル(副料理長)を務めるのは志村さん。以前は高級ホテルのメインダイニング働いていたそうである。なぜか三舟さんに心酔している。第3話「ガレット・デ・ロワの秘密」でわかることになるが、志村さんの奥さんの麻美さんは華やかな美人のシャンソン歌手で、志村さんがフランスで修業中に知り合った仲である。もう1人、紅一点のソムリエ、金子さんはワイン好きが高じてOLをやめ、この店に勤め始めたという女性で、20代後半、潔いほど短く刈り上げた神が印象的であるが、俳句好きで商店街の俳句同好会に加わっており、そのことで商店街の老人たちと店の関係を何とか持たせているという効果もあるらしい。この小さな店に出入りする客たちがっ出会った事件の1つ1つを取り上げた短編小説集の形をとる。

 フランス料理といっても、バスク地方のピペラードとか、アルザス地方のタルト・フランベとか、各地を遍歴した三舟さんらしいメニューが登場し、それらの料理が客たちの気持ちをとらえ、和ませるだけでなく、彼らが出会った不思議な出来事の謎を解くきっかけにもなる。読みながら、作者の料理についての知識の深さに圧倒されるが、実際の料理の腕前はどんなものだろうかなどと妙な好奇心も起こる。表題作「タルト・タタンの夢」では金子さんが実際にタルト・タタンを作ってみた経験が語られている。あるいは、作者自身の経験が反映しているのだろうか。なおタルト・タタンtarte Tatinは辞書によると、切ったリンゴを型に並べ込みパイ生地で蓋をしてオーブンで焼くタルトだそうである。

 全体として一応、推理小説の形をとっているが、人間が日常的に経験する心理的な不安や行き違いを、料理を通して身につけたシェフ=三舟さんの人生への洞察が解決していくという展開を取る。重大かつ深刻な事件ではなく、身近でどこででも起きそうな事件が人生相談のような形で解決されてゆく。その過程で、登場人物歌地に提供されている料理のレシピが克明に記され足り、ちょっとしたひと工夫だけが書き添えられていたりする。奥さんの機関銃のような早口のおしゃべりの中に、重要な気持ちが込められていたのを夫がいつものことだと聞き流してしまったために起こる「オッソ・イラティをめぐる不和」や、愛し合っている男女を引き裂いた性急な誤解を描く「ぬけがらのカスレ」など心理小説として読み応えがある。昨年、母を亡くしたばかりなので、「割り切れないチョコレート」に登場する兄妹の母親への思いも身につまされながら読んだ。(さりげなくネタバレになっている個所があり、まだ読んでいない方には申し訳ありませんでしたが、そういうタイプの小説です。)

 実際問題として、私自身についてみてもフランス料理を食べる機会はあまりない。この小説は舞台を下町に設定しているが、登場人物はそれほど下町風の雰囲気をまき散らしているわけではない。唯一の例外が同じ商店街の菓子屋の主人が高校時代の仲間を連れて登場する「理不尽な酔っぱらい」であろうか(どうも、居心地の悪い題名であるが、フランス語でUn mystérieux ivrogneという副題が付けられているので、フランス語のできる方は、そこから内容を推測してみてください)。わたしにしても、近所に1軒だけあるフランス料理の店の前の黒板を見ては、いつか入ってやろうと思うばかりで、そのいつかが何度も延期されている。「日々の憂さを晴らすための、楽しみとしての料理。だが、それは決して日常ではない。毎日続けば飽きてしまうし、体だって壊す。楽しみとしての食事が、日々の糧に取って代わることはできない」(82ページ)。非日常を演出しているスタッフにも日常はあるはずである。日常と非日常の微妙な交錯。ミステリーが生まれ、そして解決される。

 各編ごとに違う料理が出てくるが、それぞれに共通してヴァン・ショー(ホット・ワイン)が登場するのが興味深い。あるいは作者の好みなのであろうか。「赤ワインをお湯で割り、そこにオレンジの輪切りとクローブ、シナモンを加えて出来上がり」(33ページ)。そういえば、冬に訪れたロンドンのカムデン・タウンで屋台で売っていたホット・ワインを飲んだことがある。そして、この短編集全体になんとなく温かい雰囲気が流れていることも、ホット・ワインの味を思い出させる。
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こんばんは。
近藤史恵:「サクリファイス」のシリーズが私のお勧めです。
良い意味で期待を裏切られます。ぜひ、ご一読を!
ではまた。
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