垂水雄二『科学はなぜ誤解されるのか わかりにくさの理由を探る」(5)

9月4日(木)曇り

 前回(8月3日)から1か月以上が過ぎてしまった。ダーウィンが『種の起原』その他の著作で展開した進化論は慎重で複雑な理論だったが、時代の雰囲気がそれを大雑把で乱暴な理論に置き換えてしまった。では、その時代の雰囲気とはどういうものであったのか。「…この時代の英国では、進歩一般を自明とする空気があり、それに科学的なお墨付きを与える進化論の登場は喝采をもって迎えられたのである」(140ページ)と著者は言う。

 「進化論が社会学にも使えることをいち早く理解したのが、ハーバート・スペンサーであった」(同上)と著者は続けて書いているが、「社会学」という言い方は粗雑で、「社会理論」とすべきであろう。 彼は生物界の現象である進化を人間の社会や文化にも適用できるものと考えて、社会進化論を提唱した。この時彼が使った2つの造語が進化論の普及に大きく貢献する一方で、そこからも言葉のイメージによる誤解と歪曲が生じていった。

 「進化」を表す造語としてのevolutionは、あらかじめ定められた目的に向かっての展開であるかのような錯覚を抱かせる。またスペンサーが自然淘汰をsurvival of the fittestと言い換えたのも、進化が殺し合いによる生き残り競争であるかのようなイメージを与えた。ダーウィンは進化をめぐって様々な可能性を考えているのであるが、スペンサーの普及活動は、「進化」という現象だけを取り出し、それが弱肉強食によって実現されるという誤った進化論評価を定着させることになってしまった。ダーウィンの名前を看板に掲げる進化論が科学界の主流になったとはいうものの、進化論者の多くがメカニズムとしてラマルク流の内的傾向や用不用説を未だに想定していたというのである。

 「環境により適応したものがより多くの子孫を残すという自然淘汰の穏やかな作用は、血まみれの弱肉強食の戦いへと姿を変えてしまった」(142ページ)。これは進化のメカニズムの理解の枠を超えて、強いものが弱いものを打ち負かしてよいという社会的強者の論理へと転換していくのである。その過程で人類の進化も下等なものから高等なものへの直線的な進化というようにきわめて単純化して考えられるようになった。進化を梯子を昇っていくようにとらえ、さらにそれを人間の社会にも当てはめていくと、上位にあるものが下位にあるものを征服し、支配し、収奪するのは当然であるという議論になっていく。それは19世紀後半以後の欧米列強による帝国主義的な支配を「科学的に」正当化する議論となった。

 さらにここから才能ある人が多くの子孫を残し、能力の劣る人の繁殖を抑制することが、国民の劣化を抑える道であると考える優生学が発想されることになる。

 しかしこのような考えはダーウィンの本来の考えとは異質のものである。ダーウィンは自然淘汰による形質の分岐、種分化という多様性に向かう変化を考えており、下等なものから高等なものへという直線的な変化は彼の考えにはない。さらに自然淘汰という進化のメカニズムは外在的なものであって、生物に内在する進化への傾向のようなものはダーウィンの説では考えられていない。さらに進化は、ある方向に向かっての進歩とは同一視できないのであるという。

 つまり19世紀の特に英国における社会思潮に乗って進化論は優勢になったが、その過程においてダーウィンの学説は必ずしも正確に理解されなかった、むしろ誤解され、悪用さえされる場合があったと垂水さんは論じている。スペンサー流の社会進化論を社会ダーウィン主義というのは不適当で、むしろ社会ラマルク主義というべきであるともいう。このあたりのことをめぐってはまだ不確かに思えるところがあり、科学史の方はともかくとして、社会思想史の方はもう少し私なりにも掘り下げてみようと思う。

 今回もあまり進まなかったが、何とか終わりまでこぎつけようと思っているので、多少とも長い目で見守っていただければ幸いである。
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別ないい本を読んだ方がいいです

この本には「不確かと思えるところがある」と書かれていますが、今回扱われた内容に関しても、私には、垂水さんが書くことの一一が信用おけません。もっと適切な本がいくらもあると思います。さっさとこの本は読み終わらせて、もっと確かな本を読まれることをお勧めします。例えば佐倉統『進化論の挑戦』(角川選書)。社会思想史の本は別にいろいろあるのでしょうが。佐倉著の参考文献欄が有効。
evolutionを「造語」というのはおかしいですね。既成の言葉の用語採用というだけです。私の感じでは、evolutionの語の採用で「誤解」を促した可能性は低いと思う。最近の日本語では「進化」が流行し、「進歩」と区別なく使われるので、初めからそうかと思わされそうだが、英語ネイティブスピーカーにとって、progressと言わず、敢えてevolutionと言われた時、今の日本での誤用に匹敵する誤解が生じるか疑問である。やはり特別の社会状況があってこその誤解であり、語に責任はなかったと思う。
この本のテーマは書名そのものだとして、それを読み取ろうとして読み、批評していただきたい。
 

Evolutionについて

私は先回、「evolutionの語の採用で「誤解」を促した可能性は低いと思う。最近の日本語では「進化」が流行し、「進歩」と区別なく使われるので、初めからそうかと思わされそうだが、英語ネイティブスピーカーにとって、progressと言わず、敢えてevolutionと言われた時、今の日本での誤用に匹敵する誤解が生じるか疑問である。」と書きましたが、英語の苦手な私より信頼できそうな人が、ウィキペディア「進化」の項の「進化は進歩であるという誤解」に次のように書いてあるので紹介しておきます。
 「この誤解は、進化(英: evolution)という語にその一因があるかもしれない。英語の「evolution」という語はラテン語の「evolvere」(展開する)に由来し、発生学においては前成説の発生過程を意味する語であったほか、日常語としては進歩(progress)と強く結びついて使われる。そのためダーウィンはこの語をほとんど使わず、変化を伴う由来(descent with modification)という表現を好んだ[93]。evolution という語が生物進化の意味で使われるようになったのはスペンサーの影響である。このことは日本語の「進化」とも関連している。明治初期の日本ではダーウィンよりもスペンサーの影響が大きかったため、evolution は万物の進歩を意味するスペンサーの用語として進化と訳されたが、これが現在にも続く、進化は進歩であるという誤解を招いている[94]。」
 なお、この注93は、グールド, スティーヴン・ジェイ 「ダーウィンのジレンマ―「エヴォリューション」の長い旅」『ダーウィン以来』上、浦本昌紀・寺田鴻訳、早川書房、1984年(原著1977年)、42-49頁。注94は、松永俊男「日本におけるダーウィン理解の誤り」、『現代思想』第37巻第5号、2009年、 48-52頁 です。
 グールドの本は持っていたので、該当箇所を読んでみましたが、理解を深めることができました。なぜ、『種の起源』の第5版までは使われなかったevolutionの語を第6版からダーウィンが使うようになったのかは、よく書かれていないので、ほかを調べましたが、あるブログに註94の松永俊男の著書『チャールズ・ダーウィンの生涯』の紹介があり、そこには、当時スペンサー哲学が流行し、その影響力が強く、生物進化を意味する語として定着してしまったためということである。
 
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