ダンテ・アリギエリ『神曲 地獄篇』(7)

8月29日(金)雨が降ったりやんだり

 このところ暑さに心を乱され、酒に親しむ日々が重なり、これではいけないと、酒を飲まずに睡眠薬を飲んで寝たところ、薬が効いて今朝は寝坊したために、予定がすっかり狂ってしまった。朝のドイツ語の放送の時間を聴き逃し、フランス語は途中から聞くことになった。それで昼から映画を見に行く予定を変更して、語学番組の再放送を聴くことにした。他にもいくつかの予定が影響を受けた。とはいうものの、何から何まで予定通りに進行させていくのがよいとも思わない。

 さて、『神曲 地獄篇』であるが、第7回は第7歌を取り上げる。今後もずっと、1回について1歌を取り上げていくつもりである。第6歌の終わりで、ダンテはウェルギリウスに導かれて地獄の第4圏に達していた。この圏を支配する悪魔であるプルートスの姿もまた第6歌の終わりに描かれていたが、2人の姿を認めた彼は魔王への祈りの言葉を唱える。しかし、神の意を受けて地獄を旅する2人の行程を彼ははばむことができない。プルートスはギリシャ神話の善人と悪人とを問わず、気まぐれに富を与え、また奪う神であった。その神がここでは悪魔として描かれていることに、注目しておく必要がある。

ここにこれまでよりも多数の者どもを私は見た、
こちら側に来る者どももあちら側に行く者どもも、大声で叫び、
錘りを胸で押しながら転がしていく。

正面衝突を繰り返し続け、ぶつかったその場で
全員が回転してもと来た方へ取って返しながら、錘りを転がしつつ
叫ぶのだった、「貯めこむな」と、また「散財するな」と。
(112ページ) 第4圏にいるのは貪欲の罪を犯した人々で、浪費家が吝嗇家に「貯めこむな」と叫び、吝嗇家は浪費家に「散財するな」と叫んでいるのである。

 戦い続ける罪人たちの姿を見たダンテは、「吝嗇者」たちがもしかして「聖職者」であったのかとウェルギリウスに問う。ウェルギリウスは
これらはかつて聖職者であり、・・・
…しかも教皇や枢機卿であった者さえ混じるが、
そのような職において貪欲はその際限のなさを発揮する」。
(114ページ)と答える。しかし、あまりにもひどい穢れのために誰が誰であったか顔の区別がつかなくなっている。教皇庁の腐敗、特に新興の大商人たちとの結びつきを批判する個所であるが、作者の関心はむしろこの世に正義が行われないことの原因としての運命をめぐる議論に向かう。

 運命はギリシャ・ローマ神話では<偶然の象徴>であり、神々といえども動かすことのできないものとされ、その一方で「運命の女神」などと擬人化されて神々との関係を構築されてもいるが、ダンテが登場させたウェルギリウスは運命もまた神の配慮に従う存在であるとキリスト教的に再解釈している。それゆえ運命が与える人生の転変は人間が神に向き合う契機となるというのである。これは異界を遍歴した後のダンテがたどるはずの運命に対処するための助言とも受け取られるものである。この種の予言はこの後、さまざまな形で告げられることになる。

 運命の女神と神慮について語ったウェルギリウスは、ダンテを地獄のさらに深い部分へと導く:
さあ、いよいよ激しくなる苦しみに向かってこれから降りていこう。
・・・
いつまでも立ち止まっていることは禁じられているのだ」。
(119ページ) 

 そして2人は悲しみの小川が流れ込むステュクスという名の泥沼にたどりつく。ここでは怠惰と怒りの罪を犯した魂たちが罰せられている。彼らは泥まみれになりながら、身近な魂を、また自らを傷つけ、傷つけられていた。語り手であるダンテ自身がそれまでの彼がたどった運命に対し怒りの感情をもつ場合もあったはずであるが、ここではそれが抑制されていると翻訳者である原さんは注記している。怒りが自分自身のものであっても、他人のものであっても、あるいは人々の記憶の中に共有されるような象徴的な性格をもつものであっても、それをどのように抑え、客観的に叙述するかということは、叙事詩の課題の1つであった。

泥を飲み込んでいる者どもに目を奪われながら、
乾いた崖と汚れた井戸の
湿地帯との間にある弧をこうしてめぐり終えた。

ついに私たちは、とある塔の真下にたどり着いた。
(122ページ)

 2人は地獄の何やら巨大な建築物にたどり着く。そこで彼らは何に出会うのであろうか。
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