金田一秀穂『金田一家、日本語百年のひみつ』(2)

8月24日(日)晴れ後曇り

 この書物は、第1部「今の日本語はどんな姿か」、第2部「日本語三代」の2部構成で、前回は第1部の途中で内容の紹介をやめてしまった。金田一家は辞書編纂に100年以上取り組んできた家系である。「辞書はどうあるべきか」について、3代目なりの意見があってしかるべきである。電子辞書が紙の辞書を駆逐し始めているご時世にあって、そのような意見は特に重要に思われる。

 電子辞書の問題点として、この種の辞書に親しんでいると、50音順が頭の中に入らなくなってくるという。問題ではないといえばそれまでだが、紙でできた辞書を眺めているほうが、言葉をめぐる遊び心は動きやすいのではないかという(デジタルの辞書でも、言葉遊びを展開することは可能ではないかと思う)。

 「辞書のキモは語の用法」と著者は言う。この言葉は日本人の日常的な会話、あるいは文書のやり取りの中で、一般的にどのような使われ方をしているか、それを知ることが大事だというのである。
 「日本語の辞書は、長い間、その意味だけを記せばよくて、用法は付け足し的に考えられてきた。しかし、重要なのは、実は、用法なのだ」(69ページ)という。特に外国人が日本語を勉強する場合にこのことは特に重要である。「その語をどのように使ったらいいのか、どのような文脈で使うのがいいのか、文法的な正しさはもちろん必要であるのだが、そこから先の妥当性、適切性も書かれていなければならない。/私たちは論理の世界に住んでいるわけではない。言葉の世界は論理の世界ではない。だから、言葉について考えるのは楽しいのだと私は思う」(同上)。このことから、さらにIT時代における辞書の役割をめぐる著者の複雑な心情が語られている。

 言語の習得の過程で大きな役割を演じるのは「暗黙知」である。だから逆にいえば、日本語を「外国語」として客観視することは意味がある。「外から見る視点というのは、国語学のような、どちらかといえば内向きの学問領域にとって、非常に新鮮であり重要なヒントを与えてくれるものであった」(83ページ)。その一方で外国人に日本語を教える教師たちの待遇があまりよくないことについての意見も述べられている。

 さらにブラジルにおける日本語教育の事情と、その事情に触れた感想が記されているのだが、私もブラジルに出かけて、著者とは別の経験をしているので、このあたり、より視野を広げた観察と考察とを期待したい(簡単に言うと、ブラジルにおける日本語学習は、マンガやアニメの影響で日本文化に興味を持つようになった、あるいは日本の経済的な先進性にあこがれを抱く、非日系のブラジル人たちの間で盛んである――という事実も、見逃すべきではないということである)。
 
 それから日本語を取り巻く「言葉にしない文化」についての父親=春彦の意見を紹介し、さらに、祖父である京助も「ことばにしない文化」への愛着をもっていたと述べる。ただし、京助の場合は、アイヌの「言葉にしない文化」へのこだわりである。そして、「イランカラプテ」というアイヌの言葉が、京助とアイヌの人々の間をどのようにつないだか、あるいは「帰国子女」である著者の子息が「ねえねえ」という言葉によって、どのように周囲とつながる機会を確保したかについて述べている。

 以上、述べられていることは体系的な考察というよりも、折に触れての感想の集成という感じがあるのだが、金田一家3代にわたる言語へのかかわりを背景とする洞察には鋭いものが感じられ、われわれの日常の言葉について改めて考え直すきっかけを与えてくれるのである。この書物には、既に述べたように金田一家の日本語との取り組みを辿る第2部があって、それはまた機会を改めて紹介をするつもりである。
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