三浦しをん『仏果を得ず』

8月18日(月)晴れ後曇り

 三浦しをん『仏果を得ず』(双葉文庫)を読む。書店で平積みにされていたので新刊かと思ったら、2007年に単行本として発行された本を2011年に文庫にしたものの第8刷であった。気づかないこと、知らないことはまだまだ多い。そして、遅ればせながら、なかなか面白く読むことができた。

 文楽(人形浄瑠璃)の若い大夫である健は師匠の銀大夫から実力は誰もが認めるが変わりものの三味線(弾き)である兎一郎とコンビを組むように言われる。「兎一郎はほとんど公演ごとに、組む大夫が違う。中堅以上の大夫には、『兎一は勘所がええ』と重宝されていたが、若手には恐れられている・・・間のとり方の悪いところを、三味線の音で有無を言わさず正していくからだ。/この『芸道の鬼』って感じの、神経質で頑固そうな人と、じっくり芸に取り組むのは無理なんじゃないかなあ」(17ページ)と健は思う。健だけではない、両者ともに納得に行かない指示であったが、長老の言いつけにそむくことはできない。

 文楽の技芸員は、大夫、三味線、人形遣い、合わせて90人弱で、同じ顔触れで何十年も一緒に公演の日々を過ごす。基本的には、1月ごとに東京と大阪の劇場を往来し、合間には地方公演のための旅もする。「先輩と後輩。師匠と弟子。芸の道を行く同志でありながら、矜持のぶつかりあう好敵手。複雑で濃密な人間模様が繰り広げられているのが、文楽の舞台裏だ」(11ページ)。兎一郎は健となかなか稽古に入ろうとしない。目先の公演のことよりもはるか先のことを考えているようでもある。銀大夫師匠の語る『忠臣蔵』の山科閑居の段の魅力にひかれ、自分もいつかはやってみたいという健に対して、兎一郎は「長生きすればできる」(37ページ)という。健がこの言葉の意味を理解するのは、物語の終わり近くになってのことである。

 この物語の主要な登場人物、健、兎一郎、銀大夫はそれぞれに簡単ではない私生活を抱えている。物語の進行とともに次第に明らかになっていくそれぞれの履歴と私生活の様相が、彼らが取り組む文楽の演目と絡み合いながら描きだされる。文楽は男性だけの世界なので、その分、裏面での女性たちとの交渉が問題になるのかもしれない。長生きをして芸道を極めていくことは、仏果を得るということと正反対のことかもしれない。文楽の登場人物たちの性格や生き方が、いつの間にか技芸員たちの性格や生き方に反映しているようにも思われる。演目の解釈がいかに演じるかだけでなく、実際の人生の指針ともなっていく。物語は芸と虚実皮膜の関係にある技芸員たちの人生模様、特に健の成長ぶりを描いていく。

 三浦さんの小説を読むのは『風が強く吹いている』に続いて2作目。『風が』は映画を見た感動の余韻が覚めないままに小説も読んだのである。『神去りなあなあ日常』は映画だけ見て、原作は読んでいない。辞書の編纂作業を描く『舟を編む』は映画を見逃しただけでなく、原作も読んでいない。それにしても様々な世界を舞台にして物語を組み立てている三浦さんの取材力と構想力には目を見張るものがある。長距離競争には多少の知識があるので、箱根駅伝を描いた『風が』の物語の展開における無理を指摘することはできる。無理に気づいても感動させるのが文学の力である。その点、『仏果を得ず』の描く文楽の世界には全く無知なので、そんなものかなぁと思いながら読むだけである。ただ、他の芸能と比べながら、芸の道に共通する精進の「厳しさ」(と滑稽さ)を噛みしめていた。

 健に向かって兎一郎は言う:
大した病気も怪我もせず、存分に長生きしたとしても、あと60年といったところだぞ。たった60年だ。それだけの時間で、義太夫の真髄にたどりつく自信があるのか。300年以上にわたって先人たちが蓄積してきた芸を踏まえ、日々舞台を務め、更新たちに伝承し、自分自身の芸を磨き切る自信と覚悟が、本当にあるのか」(189ページ)。
 そういうカッコよさをもっている一方で、兎一郎はプリンに目がなく、家庭では夫婦喧嘩を繰り返している(彼の妻が誰か?という意外性も物語の要素の1つである)。芸と実生活における落差もまた見逃せないものとなっているのである。物語の構成に無理があるということが指摘できるほどに文楽の世界に詳しくないことが読者として幸福なことなのか、不幸なことなのかを考えながら、この書物を閉じた。しかし、文楽を見に行こうとは思わない。
スポンサーサイト

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

プロフィール

tangmianlaoren

Author:tangmianlaoren
FC2ブログへようこそ!

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR