厚香苗『テキヤはどこからやってくるのか? 露店商いの近現代を辿る』(2)

7月17日(木)晴れ

 昨日はこの書物の第2章までを紹介したが、本日は第3・第4章を紹介する。

 第3章「近代化と露店――明治から第二次世界大戦まで」は露店商いが近代化に即応しようとし、またその結果として変貌してきた過程をたどっている。ともすると、伝統をそのまま保っているようにみられがちな露店商いであるが、決してそうではないことが論じられている。

 たしかに「現代の東京下町で露店商いをしているテキヤ集団の中で、近世の大都市江戸で商いをしていた商人の系譜を引いていることが予想される集団はいくつもある。
 しかし…由緒書を持っているとか、江戸時代にどのような商いをしていたなどという伝承を持つ集団はほとんどないように見受けられる」(70ページ)と著者は記す。

 この理由の1つは明治の新政府による風俗の取り締まり、軽犯罪法[東京違式詿違(かいい)条例」(1872)の布達によって露店商たちの生活が一変させられたことによる。それまで彼らの間で一般的であった裸体、肌脱ぎや刺青が禁止されたのである。このため、「近世の江戸と近代の東京の間に、露店商たちの文化的な断絶が意識されたとしても不思議はない」(81ページ)と著者は説く。

 「もともと江戸で生活してきた庶民の生活が国家の力で改変されようとする中、露店商の周辺でも新しい時代への適応が模索された」(同上)。これまでの江戸の住人達に加えて、地方から多くの人々が新しい東京に流れ込み、彼らの中には屋台の商売を始めるものも少なくなかった。さらに日本の帝国的な拡張に連れてアジア諸地域からの人口の流入も見られるようになった。

 露店商の商売は加入に際して希望者の前歴を問わないので、門戸が広く、時として犯罪者の入り込みやすい社会であった。露店商たちの使う隠語が犯罪者の集団の隠語と部分的に重なることも指摘されてきた。このため、国家権力から取り締まりや、その前段階としての調査の対象とされることもあった。これに対して、露店商の側からも圧迫に対抗して自分たちの地位向上を目指す動きが出てきた。その中で近代的親分といわれた倉持忠助(1890-1958)のように東京市議会の議員となって政界に進出するものもあらわれた。倉持が中心となって1927年には昭和神農実業組合が結成された。露店商の社会の「弊習」を正すことを目的とするこの団体の名称として、昔から露店商たちが信仰してきた神農が選ばれている点が興味深いと著者は指摘している。しかし、世間の露店商たちを見る目は露骨かついやしいものであった。

 第4章「第二次世界大戦後の混乱と露店商――敗戦後の混乱期――」は終戦後、各地に出現した闇市とその中での露天商の役割、さらに占領政策の元締めであるGHQによる露店の調査・分析と評価、その結果が論じられている。

 戦後、各地に公には売買を認められていないものを扱う市――闇市がターミナル駅などの周辺に設けられた。その最初の時期において、闇市の主導権は誰にあるとも言えず、テキヤ以外に博徒や暴力団、さらには外国人も介在し、混乱した状態にあった。その中で、前回も触れた野口家文書の中には、テキヤ集団が闇市における主導権を握るために協議を重ねていたことを示す資料が見出される。

 一方、占領政策を担っていたGHQの中に設けられた民間情報教育局CIEは社会学的な調査の結果として、露店は社会の病理現象であり、その撤去が望ましいと結論した。このような結論の背後には当時の社会病理学の考えの影響があった。「しかし、研究者が社会病理として露店を見たからといって、露店商が商いをやめるわけではないし、客足が遠のくわけでもない」(119ページ)。その一方で地域社会の伝統としての露店商いへの関心もあったが、民俗学の研究対象として取り上げようとする動きはなかった。

 1949年にGHQは東京都に対して、都区内の国道上にある露店を整理するように命じた。このため、公道上に<露店を並べることへの代替案として、露店を収容するための建築物が各地に作られた。

 私が大学に入学したときに、授業科目の一覧を見ていたら社会病理学というのがあって、面白そうだと思ったことを思い出した。結局、この科目は受講しないままであった。露店を収容するために建てられた建築物について、著者は上野駅前の西郷会館を例として取り上げているが、他にももっと適切で、現在も残っているような例があるのではないかと思う。

 著者は1975年、テキヤのフーテンの寅さんが活躍する『男はつらいよ』シリーズが始まった後、さらにまたいわゆるやくざ映画がその最盛期を過ぎたころの生まれである。やくざ映画の中では、テキヤ、博徒、愚連隊などのやくざ内部における分類は意識されており、それぞれの作品の主人公がそのどれに属するかによって、物語の展開や登場人物の『善悪』の区別に影響が出ていた。1970年にマキノ雅弘監督が日活で作った『牡丹と竜』という作品などは、この書物の、特に第3章の内容と重なる部分があるように思われるし、著者がまだこの映画を見ていないのであれば、観たうえでその感想をうかがってみたいものだと思う。そういうことを含めて、あと1回、この書物の紹介を続けていきたいと考えている。
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