太平記(6)

7月6日(日)晴れたり曇ったり

 後醍醐天皇とその側近の公家たちは倒幕の密議を進めていたが、彼らが当てにした武士たちの一人が企てを漏らし、密議に参加していた土岐頼時、多治見国長らは六波羅によって討伐される。陰謀の中心にいたのが日野資朝、俊基であることが明らかになり、鎌倉から長崎泰光と南条宗直が使者として上洛して、正中2(1325)年5月10日に彼らが捕縛される。脚注によると、歴史的な事実としては、使者となったのは工藤右衛門二郎と諏訪三郎兵衛であり、2人が召し取られたのは正中元年9月のことだそうである。武士たちが全滅したので、おそらく自分たちに嫌疑はかからないだろうとはかない望みをつないで何もしなかったために、妻子までも路頭に迷うことになる。俊基はわざと重要な文書を読み間違えて姿をくらまし、諸国の事情を探るほどの知恵を発揮していたのが、今回はなぜかそのような知恵が働かなかった。もっとも武士たちが討伐されてすぐに姿をくらませばかえって怪しまれると思ったのかもしれない。

 作者は日野家が儒学によって朝廷から重く用いられてきた家柄であり、資朝、俊基がすぐれた才能を見せて天皇から寵愛を受け、重要な職務につけられてきたが、突如失脚したことについて盛者必衰の理(『平家物語』だね)を説く。陰謀の中心人物がほかならぬ後醍醐天皇であり、その後の事態の展開から見ても、彼らの行動にはそれなりの理由があったと判断してよいのだが、そのようには評価されていないことに注目する必要がある。

 鎌倉からの使いは、資朝、俊基の2人を召し連れて、鎌倉に到着する。この2人は陰謀の首謀者なので処断は免れないところであるが、朝廷の重臣であり、その才知や能力について世間から高く評価されている人物であるので、世間の評判や天皇のお怒りを懸念して、拷問にかけることもなく、通常の罪人のように侍所に留置しておいた。

 その年の7月7日、七夕の夜、宮中ではこれからの事態を心配してお祭りどころではなかったが、夜が更けて、後醍醐天皇は誰か身近にいないかとお尋ねになった。すると、吉田中納言冬方が私がおりますと、おそばに伺候した。天皇は資朝、俊基が捕えられ、「東風なほ未だ静かならずして、中夏常に危ふきを踏む」(66ページ、鎌倉の様子はまだざわついていて、朝廷の危機が続いている)、どのようにして、鎌倉幕府の気持ちをなだめればよいのかと質問された。そこで、冬方は、告文(言動に偽りがないことを神仏に誓い、相手に表明する文書=起請文)を鎌倉にあててお出しになればよいと申し上げ、天皇もそれに同意されて、冬方に草案を書けと仰せられる。草案を読んで天皇は涙を流され、近くにいた公家たちも悲嘆にくれる。

 やがて万里小路中納言宣房を勅使として、この告文を関東に下される。北条高時は馬鹿だから、開けてみようとするが、幕府の重臣で賢者として知られる二階堂出羽入道道蘊がこのような文書はこれまで発行されたことがなく、まして開けてみたなどという例はない。神聖な文書を粗末に扱うと祟りが恐ろしいと諌める。しかし、高時はそんなことは気にせずに斎藤利行に読ませる。この斎藤は、前回登場して、自分の娘が告げた陰謀を六波羅に伝えた人物である。読んでいるうちに「叡心の偽らざるの処、天の照鑑に任す」(68ページ、天皇の心に嘘がないことは、神仏がご覧になっているはずである)と書かれているところを読んだとたんにめまいがして、鼻血が出てきたため、読み終えないままその場を立ち去ってしまうが、その日から、喉の下に悪性のできものができて、1週間もたたないうちに死んでしまった。

 「時澆季に及んで、道塗炭に落ちぬと云へども、君臣上下の礼違ふ時は、さすが仏心の罰もありける」(68ページ、道徳が衰微し、人情が浮薄な末世となり、人道が廃れて泥水にまみれ、炭火に焼かれるような世の中になっても、君臣上下の礼を間違えるようなときは、さすがに仏神の罰も下るものだ)とこれを聞いた人々は恐れた。ここでは天皇が神仏に誓った文書をみだりに開いて読んだことで罰が下り、しかもその罰が高時にではなく、読んだ斎藤の方に下っていることが特徴的である。ここで高時が神仏の意思を受け止めて、自分の政治姿勢を改めれば、あるいは世の中の動きも変わったのかもしれない。が、事態はそのようには推移しない。

 とはいうもののこの事件で高時は多少は遠慮する気分になり、朝廷の事柄には介入しないと天皇に対して、御告文を返却する。宣房は京都に戻り、一部始終を報告して、天皇はここでようやく安心される。そのうちに、俊基については罪の証拠が不十分だということで赦免され、資朝については死罪となるべきところを一段軽くして、佐渡に流刑となる。

 『太平記』第1巻は「正中の変」と呼ばれる事件の収拾をもって終わる。作者は鎌倉幕府に対して批判的であるが、朝廷を手放しで支持しているわけでもないような筆法で事態を述べてきた。斎藤利行に仏神の罰が下って死んだというのが歴史的な事実としてどの程度確認できるのかはわからない。この調子で悪いやつ(あるいは少なくとも作者にとって都合の悪い、大義名分の立たない登場人物)が片付いてくれれば物語は順調に進むのだが、そうはいかない。それが末世であるということであろうか。そしてその『太平記』からさらに後世に生きているわれわれは、自分たちの時代を道徳がさらに衰微した時代ととらえるきか、それとも多少は改善された時代ととらえるべきか、判断に苦しむのではないか。
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