ダンテ・アリギエリ『神曲 地獄篇』(3)

7月5日(土)雨が降ったりやんだり

 第3歌でダンテは、ウェルギリウスに導かれて地獄の門をくぐる。門の頂には次の9行が記されていた。

 私を通って悲しみの都に至り、
 私を通って永遠の苦悩に至り、
 私を通って失われた者どもの間に至る。

 正義は高き造物主を動かしたり、
 私をなしたるものは、神の力、
 至高の知、第一の愛。

 私の前に造られたるものはなし
 永遠なる事物の他には。そして私は永遠に続いていく。
 あらゆる希望を捨てよ、ここをくぐるおまえ達は。
(54ページ) この9行は「新たな文体、新たな文学、新たな世界の宣言とも取れる。それはリアリズムの意思だ」(521ページ)と巻末の「各歌解説」で翻訳者である原基晶さんは述べる。以前、須賀敦子の文章を読んでいて、イタリアの詩のリアリズムの伝統はダンテから始まるという個所に出会ったことがある。天国という救済を描く前に、詩人は現実世界の悲惨さを徹底的に描き切らなければならないのである。ダンテは中世的に救済を求める一方で、近代的に現実と向き合うことになる。

 この9行を目にしたダンテは、ウェルギリウスに対し弱音を吐く。するとウェルギリウスは
「ここではあらゆる疑いを捨てねばならぬ。
あらゆる怯懦はここで殺されねばならぬ。・・・」
(55ページ)といって、ダンテを勇気づけながら、先を急がせる。

そこには、嘆きが、泣き叫ぶ声が、高い悲鳴が
星のない大気の中に響き渡っていた。
(56ページ)
聞こえてくる不思議で不気味な声は、善と悪との戦いの際に怯懦のゆえにどっちつかずの態度をとった卑怯者たちのものであるとウェルギリウスは言う。
「・・・
この者どもの名は地上に一片も残らず、
慈悲、また正義も一顧だにせぬ。
我らはこの者どものことを口にはせぬ。ただ眺めて過ぎればよい」。
(58ページ)
第5歌以降の地獄に登場する霊たちが詩人によってさまざまな感情を寄せられているのとは対照的である。そして、怯懦を憎む詩人の言葉の中に、ダンテの近代に向かう精神を認めてもよいのではないか。

 そして2人は冥府の川であるアケローンへと近づく。この川は本来ギリシャ・ローマ神話の中の存在であるが、この作品ではキリスト教の彼岸の世界に組み込まれている。川の渡し守であるカロンは、ダンテがまだ死んでいないことを理由に行く手を遮ろうとするが、ウェルギリウスは2人の道行きは神の意志を受けてのものであるといってカローンを言い負かす。カロンもまた本来はギリシャ・ローマ神話の存在であった。

 ダンテが川を渡ろうとすると、暗闇に包まれた河原が激しく揺れ動く。
涙を限りなく吸ってきた大地は風を吹きあげた。
風は鮮やかに赤い稲妻の光を走らせると
その光は私のあらゆる感覚を奪った。
そして、倒れた、眠りに昏倒したもののように。
(66ページ)

 第3歌には、どこかで既に耳に(目に)したことがあるような有名な言葉が多くみられる。そこに作者の作品に対する熱意を読み取ることができる。我々が天災地変に遭遇して記憶に残してきたイメージに訴えながら、地獄の姿を描いていく詩人の筆さばきは称賛に値する。またそれとともに、地獄がどのようなものであるかという説明を通じて、ダンテの神学の一端が語られている。さらに、アケローンとカロンに見られるように、ダンテがギリシャ・ローマの神話の世界をキリスト教の体系の中に織り込みながら、新しい思想を作ろうとしていることも注目されてよい。そしてダンテの導き手となるウェルギリウスが単にローマの詩人というだけでなく、キリスト教以前の人類が達した叡智の体現者という役割を担っていることも念頭に置く必要があるだろう。 
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