100分de名著『遠野物語』(4)

6月25日(水)雨が降ったりやんだり、特に午後から雷が鳴って強く降る。

 NHKEテレ「100分de名著」ではこの6月に柳田国男『遠野物語』を取り上げているが、本日その第3回の再放送を見る。夜に第4回の放送がある予定である。第3回は「生と死 魂の行方」と題され、老いと死の問題、魂の行方と人のつながりについて遠野の人たちがどのように語り伝え、また考えていたかを考察した。

 『遠野物語』はインフォーマントである佐々木喜善の自分の家の話や隣近所の話が核になっていて、それらの話の内容をなす出来事が起きた場所の3分の1くらいは喜善の家のある土渕村の山口集落とその近隣である。その山口集落を挟んだ両側にデンデラ野とダンノハナと呼ばれる場所がある。以前は山口以外の集落にもこれらの地名はあったのだが、今は山口にしか残っていないそうである。デンデラ野は60歳を超えた老人を「棄てる」場所であり、ダンノハナは共同墓地として使われていた。老人をデンデラ野に棄てることが本当にあったことかどうかは定かではないが、そのように言い伝えられてきた。現在のわれわれが直面している高齢化社会の問題に、遠野の人々がずっと向き合っていたということがうかがわれる点が重要である。

 講師である石井正己さんが好きな話として紹介しているのは熱病で死にかけた人物が菩提寺に急いで赴くという体験をしたというものである(97話)。「足に少し力を入れたるに、図らず空中に飛上り、凡そ人の頭ほどの所を次第に前下りに行き、又少し力を入るれば昇ること始の如し。何とも言われず快し」(72ページ)。寺に到着すると多くの人々が集まっている。門を入ると芥子の花が咲いていていよいよ気分がよくなる。花の間に死んだ父親が立っていてお前も来たのかという。なおも先に進むと、自分に先立って死んだ男の子がいて「トッチャお前も来たか」という。お前はここにいたのかと近づこうとすると、今来てはいけないといわれ、門のほうでは大声で自分を呼ぶ者がいるので、いやいやながら引き返したところで、はっと目が覚めて、回復した。親戚のものが水をかけて呼び生かしたのだという。
 ここには魂の感覚というものがとてもよく描かれていると石井さんは言う。「ふだん生活しているごく身近な場所に死の空間があるのですが、それは単に物理的に近いというだけでなく、精神的にも近いのでしょう。ときには生と死の境界そのものが曖昧になることもあります」(74ページ)という。

 『遠野物語』には、いわゆる「神隠し」の話がいくつもある。神隠しに遭いやすいのは女性や子どもで、夕方が危険な時間帯だとされる。第8話では松崎村の寒戸(さむと)というところで若い娘が梨の木の下に草履を脱いでおいたまま行方不明になったことが語られる。30年余り過ぎて、ある日親類や知人が娘の家に集まっていると、ひどく老いさらばえたその女が戻ってきた。どうして帰ってきたのかと問うと、みんなにあいたくなったから帰ってきたといって、また行くぞといって外へ出てそのまま消息を絶ってしまった。その日は風が激しく吹く日だったので、遠野郷の人は、今でも風が騒がしい日には「今日はサムトの婆が帰ってきそうな日」(75ページ)だというという。
 草履を脱ぎ置くというのは、異界に行くときのメッセージである。人々が集まっているところにやってきた老婆は生きているのか死んでいるのかよく分からない。人間なのか、それとも妖怪や幽霊なのか、『遠野物語』の世界はあいまいで、一義的にこうだと決めつけられない在り方を許容しているという。
 娘が姿を消したのは20歳前のことであったと思われる。そうすると、30年たてば40代で、現代であれば「極めて老いさらばいて」などいないのである。彼女の姿は、おそらくは山の中にある異界の過酷な生活(?)を想像させるのだが、同時にその時代の山村の暮らしの厳しさも示していると考えるべきではなかろうか。
 石井さんは風と魂が結びつけられていることにも注目している。魂をめぐる伝承には日本人の宗教的な精神の基層があると柳田が考えるようになったのではないかとも推論している。

 99話で紹介されるのが、1896(明治29)年に起きた明治三陸大津波の話である。これは遠野郷の話ではないが、遠野で実話として語られていたものである。
 遠野から海岸部の山田町の田之浜に婿に行った男性が大津波で妻と子を失い、生き残った2人の子どもとともに元の邸の土地に小屋を建てて1年ばかり暮らしていた。夏の初めの月夜に目を覚まして、用を足しに行こうと海岸を歩いていると霧の中から男女2人の姿が見え、そのうちの女は津波で死んだ自分の妻である。懐かしくなって追いかけていくと、男は自分の妻が結婚前に愛し合っていた相手である。今はこの男と夫婦になっているというので、子どもがかわいくはないのかというと、女の顔色が変わる。死者が口をきくのかと悲しく情けなくなってきて足元を見ているうちに、男女はまた歩き出して姿が見えなくなってしまう。さらに追いかけようとしたが、相手は死者ではないかと思って引き返したという。
 妻を失っただけでなく、妻があの世で自分以外の男と結婚しているというのは残酷すぎる話であるが、そういう事実(?)に直面することで彼は新しい生活に目を向けることができるようになったのではないか、「心の復興の物語として読んでこそ意味があるのではないか」(81ページ)と石井さんは論じられていた。

 東日本大震災を経験して、改めて我々は悲劇を抱えながら現実を生きてゆくしかないことを思い知らされているが、「心の復興」の過程で「魂の行方」が改めて重要な問題になっているのではないか、『遠野物語』はそのようなわれわれにとって重要な示唆を与えうるのではないかと石井さんは論じる。
 物質的な復興だけでなく、「心の復興」も重要であるというのはその通りに違いない。今回語られた説話の中には幽明の境界が定かでないものが多かったが、そのような物の観方を受け入れながらも、現実は現実として取り組んでいくことも必要であろう。昔話には鬼や巨人が一夜のうちに大きな仕事をするというものがあるが、我々がいくら願っても、そういう鬼や巨人は我々の目の前には出てきてくれないのである。 
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