太平記(4)

6月16日(月)晴れ

 後醍醐天皇の意を受けて、鎌倉幕府打倒の謀議を進める日野資朝はこれは頼りにできそうだと思う公家、僧侶、それに武士を集めて「無礼講」という当時のしきたりを破った宴会を開き、その中で倒幕のための相談を進めていた。しかし、ただ宴会に集まるだけでは怪しまれることになると、その当時学識において並ぶ者がないといわれていた玄恵僧都を招いて『昌黎文集』という書物の講義をしてもらうことになる。

 『昌黎文集』は中唐の詩人であり文章家であった韓愈(768-824)の文集である。韓愈はその字を退之といったが、河北州昌黎出身のため昌黎とも号した(本当は昌黎の出身ではないともいうが、細かいことにはこだわらないことにする)。玄恵僧都はただひたすらに学問の人であったので、謀反の企てなどとは夢にも知らず、会合の席に出かけては深遠な道理を説いていた。ただ単に道理を説くだけならば、何も韓愈を取り上げなくてもいいはずで、このあたりの前後の脈絡がはっきりしない。

 この文集の「昌黎潮州に赴く」という長編がある。ここまで来て、聴講者たちは「これは不吉の事なり。呉子、孫子、六韜、三略なんどこそ、しかるべき当用の文なれ」(50ページ、これは不吉なことである。呉子、孫子、六韜、三略などこそが差し当たって有用な文章である)といって、講義をやめさせてしまう。「呉子、孫子、六韜、三略」はそれぞれ兵法書である。そういう書物の内容こそが、今、知りたいものであるという聴講者たちの気持ちはわからないでもないが、すぐに役に立つ知識は、すぐに役立たなくなるということもあって、性急で浅薄な学問観と人間性がここに現れているとも考えられる。作者もそう考えたのであろうか、わざわざ韓昌黎の説話を長々と紹介する。

 韓愈の兄弟の子に韓湘というものがいた。彼は文学をも嗜まず、詩を作ることもなく、ただ道士の術を学んでいた。ある時、韓愈は韓湘に向かってもう少し勉強して、ましな生き方をしろと教え諭したが、韓湘は大笑いをして、自分は儒教の説く仁義などよりももっと大きな世界の中に生き、自然の営みを超えようとしているのだと答える。韓愈は、お前のいうことはよく分からない、今すぐ自然の営みを超えて見せることができるかと重ねて問う。すると、韓湘は自分の目の前にあった瑠璃の盃を伏せて、やがてまた引き上げると、その下から美しい花が咲いているのが見えた。韓愈が驚いてその花を見ると、花びらに金字で一連の句が記されていた:
 雲秦嶺に横たはつて家何(いずく)にか在る
 雪藍関を擁して馬前(すす)まず
情趣の尽きない句であると思ったが、その意味がどうもよく分からない、近くに引き寄せてよく考えてみようと思ったが、突然花は消えてしまった。

 その後、韓愈は時の(憲宗)皇帝が仏教を重んじていることに対して異議を申し立て、皇帝の怒りに触れて潮州の知事に左遷されることになる。その途中、日が暮れて、馬が行き悩んで進まず、行き先は遠く思われる。はるかに故郷の方角を見れば、秦嶺に雲が横たわって、自分がこれまでやってきた方角もわからない。悲しんで非常に高い山に登ると、藍関(長安の東南にある関)に雪が降り積もって、行くべき道もわからないほどである。進退窮まっているところに突然韓湘が姿を現した。

 韓愈は馬から降りて、先年、お前が咲かせた花の中に見えた一連の句は、自分が左遷される運命にあることを攀じするものであったことが今分かったといい、二度と長安に戻ることはないだろうと思う悲しみの心を込めて、先の一連に六句を続けて詩を作り、韓湘に与えた。
 一封朝に奏す九重の天
 夕に潮陽に貶せられる路八千
 本より聖明の為に弊事を除かんとす
 豈に衰朽を将(も)つて残念を惜しまんや
 雲秦嶺に横たはつて家何にか在る
 雪藍関を擁して馬前まず
 知りぬ汝が遠く来ること須らく意有るべし
 好し吾が骨を瘴江の辺(ほと)りに収めよ
(53ページ、以下の口語訳は54ページの脚注による:一つの封事(天子への意見書)を朝に奏上し、夕べには潮陽(潮州県)に左遷され、八千里の道をたどる。天子のため弊害を除こうとしたのだから、どうして老年の身で余命を惜しもうか。雲は秦嶺にたなびき、来し方のわが家は見えない。行く手の藍関は雪に閉ざされて馬も進まない。お前がやってきたのは、私を思うからだろう。この上はお前の手で私の骨を瘴江(毒気のある入江)の傍らに埋めてほしい。)

 韓湘はこの詩を袖に収めて、二人は泣きながら東西に別れていった。
 天子に諫言をしたために左遷された官吏の説話は不吉だといって講義をやめさせたのであれば、どうも短慮というよりいうほかはない。兵法の講義は実用的であるかもしれないが、疑いを招く恐れも大きいのではないか。

 それよりも問題であるのは、『太平記』は朱子学の大義名分論に即して政道のあり方を説こうとした書物だといわれているが、ここで登場した韓愈が中国における儒学の伝統を守り、宋代における朱子学の交流への道筋を開いた人物であることに注目しておく必要がある。『太平記』の作者は韓愈が憲宗の崇仏に反対して左遷されたという歴史的な事実を知っており、それを書きとどめる一方で、儒教ではなく老荘思想を信じ、実践する韓湘という身近な人物の言動を描くことで、その韓愈の儒教思想を相対化している。韓湘は韓湘子と尊称され、八仙の一人に数えられ、民間信仰の対象となっている。

 後醍醐天皇の討幕のための働きかけの経緯の中に、韓愈と韓湘の説話は唐突に挿入されている感じがするが、この説話が紹介されることによって倒幕の動きを含め、すべての人間の営為が相対化される。『太平記』全体を通してこの認識が徹底しているとは思われないが、物語の性格を考える上で無視できないものであると考えるべきである。
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