レオナルド・ダ・ヴィンチの「手帳」

1月26日(土)晴れ

 梅棹忠夫の『知的生産の技術』はよく読まれた本であるが、著者の主張がそれを読んだ人々にどれだけ正しく伝わったかどうかは疑問である。本の読み方、受け取り方は読者の自由であると言ってしまえばそれまでであるが、ある書物の読者がすべて著者の意図を理解することは起こりそうもない。とんでもない誤解が著者の意図とは別に普及してしまうのは不幸なことである。実際、私自身もこの書物を後から読み直してみて自分が内容をきちんと理解していなかったことに気付いた個所が少なくない。

 例えば、この書物を読んでカードを作りはじめた人は多いが、その場合の注意として梅棹は「カードは分類することが重要なのではない。くりかえしくることがたいせつなのだ」(59ページ)と説く。カードを何枚作っても、それを読みなおさなければ、それによって整理しなおさなければ意味はない。結局私はカードをやめてノートに戻ったが、「くりかえしくることがたいせつ」なのはカードでもノートでも、文書ファイルでも同じことである。

 ところで、彼がカード使用に至ったきっかけは若い頃に読んだメレジュコーフスキーの『神々の復活』という書物に出てくるレオナルド・ダ・ヴィンチの手帳の話だというのが気になっている。「この天才には奇妙なくせがあった。ポケットに手帳をもっていて、なんでもかきこむ・・・まったく、なんのやくにもたちそうもないことまで、こくめいにかきこむのである」(22ページ)。ダ・ヴィンチのノートは日本でも何度かその一部が展示されたし、翻訳も出ているが、「手帳」などというものではなくて、かなり大きいのである。ついでに言えば、レオナルドの時代の洋服にポケットがあったかどうかも疑ってみた方がよい。ラブレーの『パンタグリュエル』に出てくるパニュルジュはブラゲットに物を入れている。これはラブレー一流の諧謔なのかもしれないが、まだポケットはなかったようにも思われる。大判のノートを手帳にしてしまったこの誤解がメレジュコーフスキーによるものなのか、梅棹によるものなのかは分からないが、知的生産のためのカード使用という創造的な工夫の発端が誤解に基づいているというのは興味深いことである。
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