齋藤希史『漢文脈と近代日本』

5月29日(木)晴れ、暑し

 斎藤希史『漢文脈と近代日本』(角川ソフィア文庫)を読み終える。近代日本のことばの変遷を漢文脈、漢文やそれに派生する文体と、漢文的な思考や感覚を含めた「漢文脈」という視点からとらえてみようという試みである。日本のことばの世界における漢詩や漢文は、時代によってその役割が違うが、大きな力をもつようになったのは近世の半ばごろから後のことであるという。「漢文脈のうねりが起きた、といってよいでしょう。そしてそのうねりこそが、近代という時代を用意したのです」(12ページ)という。しかし、漢文脈に支えられながら成立した近代日本は、「そこからの離脱、あるいは解体と組み換えによって、時代の生命を維持しつづけようとし」(同上)た(具体的には言文一致などの運動をさす)。この過程の全体を見直すことによって漢文脈の再認識を図ろうというのである。

 序章「漢文脈とは何か――文体と思考の二つの極」ではまず、漢字片仮名交じりの文語文=漢文訓読体が長らく日本の公式の文体として使われ、今日のわれわれの生活にも影響を及ぼしていることが指摘される。その一方で、漢文長という場合のその範囲が曖昧であるとも説かれる。漢文脈は文体であるとともに、思考でもある。漢文を学ぶことはただ漢文法(形式)を学ぶだけでなく、中国古典世界についての知識(内容)をも要求する。「漢文によって自らの心情や思考を記すということは、その知の世界において、自分自身の輪郭を定めていくということでもあるわけです」(19ページ)。

 漢文の流通した世界では、どの地域であっても古典文としての漢文(文言)のみが唯一の書記体系として閉鎖的に存在しつづけたわけではない。日本はもとより、韓国でもベトナムでも複数の書記体系が存在し、その中で漢文は時代や地域によって異なった役割を果たしてきた。このことから近代日本のことばの問題を考えていこうとする。漢文は断片的な知識の集積ではなく、一つの知的世界として習得されるものであり、同時に個別の職業のために要求される専門的・技術的な知識ではなかったことが重要である。さらに日本社会において漢文が世間一般に一人前と認められるためには習得が望ましいものと考えられるようになったのは、近世以降のことである。このような転機は松平定信の寛政の改革によってもたらされた。特にその中の「異学の禁」は、朱子学を正統として、幕府の儒者がそれ以外の学派の学説を講じることを禁止し、それまでは林家の家塾であった湯島の聖堂を正式に幕府の学問所とし、さらに「学問吟味」、「素読吟味」という試験を行った。このような教学システムの整備が各藩にも波及し、教育が普及するとともに教授内容の標準化が進んだ。

 多くの人々が漢文を学ぶようになったが、それは儒者になったり、漢詩人になったりするためではなく、基礎学問としてであった。その過程で、ある特定の思考や感覚の型が形成されることになる。それは中国でその高度な読み書き能力によって社会的な地位を築いた士人もしくは士大夫と呼ばれる呼ばれる人々のもつ思考や感覚の型にならうものであった。太平の世が続く中で武士は武芸よりも行政能力を要求されるようになる。漢文の学習はその基礎を築くものであり、かつ道理と天下を語るための言語を武士たちに与えるものでもあった。

 第1章「漢文の読み書きはなぜ広まったのか――『日本外史』と訓読の声」は近代日本の漢文脈の中で最も大きな影響力を及ぼした書物である頼山陽の『日本外史』の成立の事情と性格、そしてそれがどのように読まれたかを論じる。『日本外史』は保元・平治の乱による源氏平氏の台頭から徳川の天下統一に至るまでの武門の攻防を記した書物である。多くの日本人の興味を引き寄せる時代を取り上げている一方で、小説的な面白さの方に重点が偏って歴史書としての正確さが欠けていること、大義名分論を強調するあまり史実にあわない叙述が生じたりするという問題点もある。しかしとにかくわかりやすく面白いし、武士にとっては自分たちのアイデンティティを確認するのにも役立つ書物であった、「思想の中身もさることながら、歴史を一つの原理、一つの流れでわかりやすく描き出し、規範を示したことが人々に歓迎された」(66ページ)のである。特にそれを音読することによって、人々の心に強く訴えることができる名調子が広く受け入れられた。それは詩吟の流行とも重なるものであった。

 第2章「国民の文体はいかに成立したのか――文明開化と訓読文」では初等教育としての素読の普及によって、訓読のリズムが日常の言語とは異なったリズムとして身体化されたこと、その基礎の上に漢文が歴史や道理を語る言語としてその役割を確保したのは江戸時代の後半になってのことであったが、文明開化に伴って漢文と訓読の分離が始まったことが述べられる。訓読体がいわゆる文語文として公式の場で用いられるようになった。その一方で、西洋流の近代意識をもちはじめた明治の新知識階層は山陽流の漢文への違和感をもちはじめていた。

 著者は頼山陽の文章をどのように評価するかをめぐる徳富蘇峰、山路愛山、森田思軒の議論の分析を通じて、漢文という文体には表現媒体としての機能性と歴史=自己認識にかかわる精神性の2つの焦点があるということに注意を促す。異言語への対応力や造語力の高さは漢字漢語の特質であり、その一方で歴史的な伝統とつながることによって精神の規範を提示するものでもあったという。しかしその一方で、西洋の新しい知識の流入は(既に述べたように一方で漢字・漢語の活躍の余地を与えたのだが)、より実用的な文体を求める動きも強くなってくる。その中で広い幅を持ちながら訓読体が国民の文体として広く普及し、定着したと著者は説いている。

 3章、4章、終章の紹介は後の機会に回すことにする(どうも近頃書物の前半だけを取り上げて、後半になかなか筆が及ばないことが多くなっているが、何とか残りの部分も頑張って紹介するつもりである)。ここまで読んできた中で気になったのは著者の記述が<文学的>で厳密さを書くこと、「漢文脈」ということを強調している一方でその概念があいまいなまま議論が進められていること、歴史や論説の文章が多く取り上げられている一方で、もっと日常生活に即した場面での記録や報告の類がどのような文体で記されていたことには興味が及んでいないことなどである。訓読体は日記を書くのに適した文体だという気がするので、そのあたりのことをもっと実証的に取り上げていくとよかったのではないかという気がしている。

 著者は漢字・漢語の造語力の高さは類例がないと論じているが、これは井の中の蛙の議論であって、ラテン語の造語力とそれを借用した英語の造語力が、これらの言語を世界的な規模で有力な言語にした歴史的な経緯を視野に入れる必要があるだろう。文明開化の日本において漢字・漢語の果たした役割と、ルネサンスのヨーロッパにおいて古典ラテン語や古典ギリシア語が果たした役割には新しい知への対応に古典的な言語が役割を演じたという共通性が認められるかもしれない。そういうことを考えさせられたというだけでも、この書物を読む価値があったと思う。
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