ノンちゃん雲に乗る

5月28日(水)曇り

 5月27日、神保町シアターで「麗しき美少女伝説」特集上映の一環として上映された『ノンちゃん雲に乗る』(1955、新東宝、倉田文人監督)を見る。児童文学の古典的な作品である石井桃子(1907-2008)による原作は何度か読んでいるが、映画を見るのはこれが初めてである。

 東京の郊外(といっても、かなり田舎)に父、母、兄、それに飼い犬と暮らしている小学生のノンちゃん(田代信子とい宇野だが、みんなからそう呼ばれている)は、母親が兄を連れて東京に出かけ、自分が置き去りにされたのをだまされたと思って泣きながら、いつもの遊び場である瓢箪池に出かけ、池に張り出している木に登り、池の面に映った雲を眺めているうちに池に落ちる…

 なぜか彼女は雲の中を漂っており、不思議なおじいさんの呼ぶ声に導かれてそのおじいさんが操っている雲にたどり着く。そこには普段彼女をからかって喜んでいる悪たれ小僧の長吉がいる。雲の上には、何か悲しみごとを抱えてやってきた人たちがいるといって、おじいさんはノンちゃんに自分の身の上を語らせる。ノンちゃんは彼女の家族の一人一人について語っていく。

 石井桃子が太平洋戦争中に東北の農村で書き進めていた原作は、かなり慎重に書かれており、それをまたこの映画はかなり慎重に脚色している。原作で多少時代背景が描かれていたのに対し、映画ではそれが取り除かれている。原作の時代背景は昭和の初めか、物語の終わりの方で戦後のノンちゃんが医者の学校に通っているところまで描かれているが、この部分は映画では省略されている。したがって映画の方では戦前の話か、戦後の話かはちょっと見ただけではわからない。石井桃子が小学校に通ったのは大正時代のことで、物語はいずれにせよ昭和の話だから、原作者=主人公ではない。ノンちゃんとその兄さん、長吉といった子どもたちは石井が接してきた様々な子どもたちの姿から描き出されたもので、彼女の狭い経験に基づくものではない。

 映画はノンちゃんの雲の上での体験を「夢」にしてしまっているが、彼女はそれが夢だとは思いたくないらしい。何よりも長吉が一緒に雲に乗っていることが気にかかるのである。原作では長吉が戦争に出かけたきり、帰ってこないので謎は解けないままであることが語られているが、この部分は映画では省かれている。原作では必ずしも主人公の「夢」ではない経験を「夢」にしてしまっている例としては、アメリカ映画の『オズの魔法使い』があるが、この映画製作・公開の時点で『オズ』はまだ日本で公開されていなかったはずであり、構成や、犬が重要な役割を演じていることなど偶然の一致とみるべきであろう(それに、「夢」として片づけてしまうのは、それこそ夢がないというのが物語のテーマの1つではないかと思う)。子どもの世界には現実を超えた「神話」的な部分があり、ノンちゃんの経験はそういう部分と結びついていると考えるべきである。

 以前、武者小路の「新しき村」について調べていた時に、会員に石井桃子という名前を発見したことがあり、これが児童文学作家と同一人物であるかは未確認であるが、石井が農村での事業にかかわったり、こどもの図書館を運営したりしたことは白樺派的な理想主義の影響ではないかと思われる。それどころか彼女は若いころに白樺派の一員でもあった犬養健のもとに出入りをしているのである。その一方で彼女は菊池寛にも認められて、文藝春秋で働いていた時期もある。このころの菊池が社会改良的な思想を持っていたことも注目されてよい。英語に堪能であった石井がボームの『オズの魔法使い』シリーズを読んでいた可能性は高いと思うが、アメリカの人民主義運動の支持者であったボームと理想主義的な改良主義との間には微妙な距離があるように思われる。

 ノンちゃんの一家は昭和初期ではまだ珍しかったと思われる一世代の核家族であり(原作によると、もともとは東京の都心部で大家族で暮らしていたのだが、ノンちゃんが重い病気にかかってやっと回復した後で、健康にいい場所はないかということで郊外に引っ越したのである。映画では父親があえて郊外での暮らしを選んだという風に語られている)、色々な新しさを持っている一方で、映画でも描かれているひな人形のエピソードに見られるように伝統的なものをどのように継承するかということも物語の底流をなしている。何よりも雲の上のおじいさんは祖霊的なものを感じさせる(原作でノンちゃんは氷川神社の境内で泣いている。石井桃子は埼玉県の人なので、埼玉県と東京都の西北部で多いこの神社にはなじみがあったのであろう)。ノンちゃんの一家は核家族ではあるが、その一方で親戚間の交流も盛んであるらしい。

 ノスタルジックな部分もあり、新しい生活の胎動もあり、子どもの世界を写実的に描いていたり、ファンタジーを展開したり、色々な要素を含んでいて色々な読み方ができる原作を、映画はかなり簡略なものにしているが、ファンタジーの部分が強調されているのは映画なりの工夫であろう。ただ、『オズの魔法使い』などと比較すると、ファンタジーの部分が見劣りするのは時代の制約として致し方のないところであろう。原節子さんと鰐淵晴子さんの母子が美しすぎると思う人と、だからこそこの映画の魅力があるのだという人と、これも意見の分かれるところであろう。
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