『太平記』(2)

5月24日(土)晴れ

 『太平記』は君主が慈愛に満ちた天の徳に、臣下がその仕事に励む地の道にそれぞれ則って政治を行うことが世の中を平和にするという考えを述べた「序」に続いて、鎌倉幕府が北条氏の歴代の善政によってその力を増してきたが、高時の失政によってその勢威に翳りが見えたことを冒頭に記す。今回は、この機に乗じて朝廷を中心とする政治の回復を企てた後醍醐天皇の政治とその周辺について見ていく。

 後醍醐天皇は後宇多天皇の第二皇子で、北条高時の計らいで31歳で即位した。当時としては異例の高齢での即位である。『太平記』はこの間の事情についてそれほど丁寧に説明はしていないが、鎌倉時代の後期から続いていた皇室の中での皇位継承をめぐる争いと関連する。皇位をめぐって紛議を続けていた持明院統と大覚寺統の両方で皇位継承の正系を主張すべき人物がまだ幼く、持明院統の花園天皇に続いて、大覚寺統から後醍醐天皇が即位することになった。花園天皇も後醍醐天皇も一代限りで、その子孫は即位することなく、皇位は「正系」に戻すことが予定されていた。後醍醐天皇は花園天皇時代に皇太子であったのだが、皇太子の方が年長であったというのも異例である。

 後醍醐天皇は、そのような即位をめぐる事情にもかかわらず(あるいは、だからこそかもしれないが)、意欲的に政治に取り組まれた。「御在位の間、内には三綱五常の儀を正しうして、周公孔子の道に従ひ、外には万機百司の政(まつりごと)に懈(おこた)らせ給はず、延喜天暦の跡を追はれしかば、四海風を臨んで悦び、万民徳に帰して楽しむ」((38ページ)。うちには道徳を正しくし、政務に熱心に取り組まれたので、人々は喜んだという。

 その善政の内容を具体的に述べると:
①物資の流通を阻害する新席を停止したこと、②元亨2年の夏に発生した飢饉で庶民が苦しんだとき、検非違使別当に命じて米商人による米価のつり上げを禁止し、京都の二条町に仮屋を建て米価を定めて売らせたこと、③後醍醐天皇自身が記録所に出御され、訴訟を直接聞き、理非を決断されたことである。

 このような政治について、「誠に治世安民の政、もし機巧についてこれを見れば、命世亜聖の才とも称しつべし」(39-40ページ、誠に世の中を治め民を安んじる政治で、そのような政治を行う才知は命世亜聖=孟子に引けをとらないものというべきである)とたたえている。しかし、その一方で、「ただ恨むらくは斉桓覇を行ひ、楚人弓を遺(わす)れしに、叡慮少しき似たる事を」(40ページ、ただ恨めしいことには斉の桓公が覇道を行い(武力で国を治めた)、楚の名君恭王が自分の国の民のことしか考えず、志が狭小だったことに、天皇のお心は似たところがあった)とその覇者的で狭量な政治の推進が政権の長続きを妨げたのだと批判の言葉を加えている。

 物語は続いて後醍醐天皇の后妃について述べる。中宮となったのは後に太政大臣となった西園寺實兼の娘である嬉子であった。西園寺家は承久の変以来鎌倉幕府との結びつきが強く、そのことにも配慮した縁組であったと考えられる。しかし天皇は嬉子の美貌にもかかわらず、彼女に心を寄せず(これは『太平記』の作り事らしい)、阿野中将公廉(きんかど)の娘廉子を寵愛された。「傾城傾国の乱れ、今にありぬと覚えて、あさましかりし事どもなり」(42ページ)と、天皇の廉子への寵愛が国の乱れにつながったと嘆いている。

 とはいうものの、後醍醐天皇にはほかにも多くの妃があり、「宮々次第にご誕生ありて、十六人までぞおはしましける」(43ページ)。特に尊良(たかよし)親王、尊澄法親王=還俗して宗良(むねよし)親王、尊雲法親王=還俗して護良(もりよし)親王、静尊法親王が有力な方々であったとする。中でも護良は利発・聡明であったので、後醍醐天皇は位を継がせようと思っていたが、幕府を慮ってそれもできず、持明院統から皇太子が立った(量仁親王=後の光厳天皇)ので出家させたと『太平記』は記すが、森茂暁さんによるとこれは歴史的な事実ではないそうである。物語を先取りして言えば、護良親王は鎌倉幕府を倒す際の功労者の1人であるが、その後、転落・悲劇の道をたどることになる。『太平記』はこの宮様に同情的であり、その筆法がこのあたりに現れていると見るべきであろう。

 「皇子たちの御事」と題された段は「この外の儲君儲王の撰び竹苑椒庭の備へ、誠に王業再興の運、福祚長久の基、時を得たりとぞ見えたりける」(45ページ)と、優れた親王がそろったことにより、倒幕と王政復古の条件が整ったと論評する文をもって締めくくられている。

 以上、観てきたところからわかることは、『太平記』が歴史的な事件に即しながらも、ところどころ事実と違う記述をしていること、その中で儒教的な政道観に立って個々の場面について是々非々の判断を下していることである。その一方でなかなか表に出てこない作者がところどころで悲劇的な運命をたどった人物に同情するような書き方をしているところがあって、一筋縄の評価を拒否するところがあることも付け加えておこう。

 次回から後醍醐天皇とその側近による倒幕の企ての具体的な姿をたどることにしたい。

 
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