『太平記』

5月14日(水)晴れ、暑し

 岩波文庫から兵藤裕己校注『太平記(一)』が刊行され、5月13日に読み終えたところである。この第1分冊には40巻からなる(ただし22巻は欠けている)『太平記』の1巻から8巻までが収められており、これから第6分冊までが順を追って発行されていく予定のようである。これまで2度挑戦して、成功しなかった『太平記』の全巻読破がどうやらこの岩波文庫版で実現しそうだと喜んでいる。

 『太平記』は後醍醐天皇の即位(1328)から、鎌倉幕府の滅亡、建武の新政、南北朝分裂、観応の擾乱、足利義詮の死と細川頼之の管領就任(1368)に至るまでの歴史を描いた軍記物語であり、この文庫本の巻末の「解説1 『太平記』の成立」で兵藤さんがまとめているように扱っている時代と物語の主題、歴史認識や政治思想において重要であるだけでなく、一種の百科全書的な豊かさを秘めた物語である。また『太平記』の文章について兵藤さんは「和漢混淆・雅俗折衷」で「以後の文章語の標準」(457ページ)となったと記している。個人の好みの問題ではあるが、私は『平家物語』の冒頭の名調子よりも、『太平記』の論説的な始まり方の方が好きである。

 『太平記』は次のように書き出されている:
 蒙竊(ひそか)に古今の変化を探って、安危の所由を察(み)るに、覆って外なきは天の徳なり。明君これに体して国家を保つ。載せて棄つることなきは地の道なり。良臣これに則って社稷を守る。若しその徳欠くる則(とき)は、位ありと雖も持(たも)たず。(33ページ、不肖私が古今の歴史的な変化を探って、平和と戦乱の由来を考察してみたところ、天は万物に慈愛を垂れ、優れた君主はこの原理を実行に移して国家を保つ。地は万物をはぐくみ載せるが、良い臣下はこのことをよく理解して国家を守る。若しその徳が欠けているときには、高い地位にあってもそれを保つことはできない。) 以下、暴政が国家の混乱を招いたいくつかの例を示し、「後昆(こうこん)顧みて誡(いまし)めを既往に取らざらんや」(同上、後世の人は顧みて過去の例に学ばなければならない)。つまり歴史的な教訓から政治のあり方を学べと論じているのである。もっともその歴史的な教訓がどういうものか、物語の内容と記述がかなり複雑で読み取りにくいから問題になるわけである。またここで述べられている政治哲学に私が賛同しているわけではないことも付け加えておきたい。

 第1巻は後醍醐天皇が即位されてから、意欲的に政務に取り組む一方で、倒幕の企てを進められるが、それが露見して首謀者が殺されたり、、捕縛されたりする。その中で天皇は北条高時のもとに申し開きの文書を送り何とかことを収めることに成功するという次第(いわゆる正中の変)を語っている。

 その最初の段は「後醍醐天皇武臣を亡ぼすべき御企ての事」と題されている。
 ここに、本朝人皇の始め神武天皇より九十六代の帝、後醍醐天皇の御宇に、武臣相模守平高時と云ふ者ありて、上には君の徳に違ひ、下には臣の礼を失ふ。これによつて、四海大いに乱れて、一日も未だ安からず。狼煙天を翳(かく)し、鯨波地を動かす、今に至るまで三十余年、一人としてまだ春秋に富めることを得ず、万民手足を措くに所なし(34ページ、さて、神代の後、人代の最初である神武天皇から96代の帝である後醍醐天皇の治世の時代に、北条高時というものが政治の実権を握っていた。彼は天皇の徳に背き、家臣たちの統制を保つことに失敗した。それで天下は大いに乱れ、1日も安心して暮らせなくなってしまった。狼煙(のろし)の煙が天を覆い、ときの声が地を揺るがす。今に至るまで30年以上の長きにわたり、一人として長生きできるものはいないし、万民は安心して暮らせない)。
 つまり、悪いのは北条高時が序文に出てきた天の徳、地の道にそむいた政治を行ったからであるという。書物の題名は『太平記』であるが、「今に至るまで」=書物執筆の時点まで太平は訪れていないとここには書かれている。

 語り手はここから高時に至るまでの鎌倉幕府がたどってきた道のりを振り返る。平家を亡ぼした源頼朝が将軍に任じられるが、その子実朝で頼朝の血筋は絶え、北条氏が実権を握ることとなる。北条氏は代々「謙に居て仁恩を施し、己を責めて礼儀を正しうす」(36ページ、謙虚な態度をとって仁政を行い、自分に厳しくして礼儀を正しく守った)。それで当主は政治的な実権を握っていても、高い地位を求めるようなことはしなかった。源氏の血筋が絶えてからは、京都からはじめは摂家から、のちには親王の中からしかるべき人材を招いて将軍と仰ぎ、京都には六波羅探題、九州には鎮西探題を置いて幕府の権力を浸透させた。こうして幕府と武士の力は強大になり、朝廷と公卿の力は次第に衰えていくかに見えたが、高時の代になって「政道正しからずして民の弊(つい)えを思はず」(37ページ、正しい政治を行わず、民衆の苦しみに思いを寄せず)、逸楽にふけっていたため幕府の威勢に陰りが見えてきた。この時、帝位にあったのが後醍醐天皇である。

 これからどのくらいの時間がかかるかわからないが、続けて『太平記』の内容を紹介、論評していきたい。理解が十分に及んでいない点についてご教示をいただければ幸いである。
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