エトルリア人が遺したもの

5月8日(木)曇り

 NHKラジオまいにちイタリア語応用編の『イタリア:24の物語(L'Italia 24 storie)』の再放送の第9回ではトスカーナ州のチェルヴェーテリ(Cerveteri)に残るエトルリア人のネクロ―ポリ(ネクロポリス=死者の都)について取り上げていた。エトルリア人はイタリアの先住民族の1派で、ローマに先立ってイタリア半島に独自の文明を築いていた。

 Gli Etruschi sono un popolo che viveva nell'Italia centrale in tempi antichi.(エトルリア人はその昔、中部イタリアに住んでいた民族である。) 彼らは多くの都市を築き、緩やかな都市連合を形成するだけでなく、鉄を利用し、フェニキアをはじめとする地中海の諸民族と交易活動を展開していた。しかしローマから勢力を広げてきたラテン人の文明圏に次第に飲み込まれ、その文明は姿を消していった。

 彼らは当時としては高い建築技術を持ち、その技術は都市国家ローマの建設にも生かされた。エトルリア人たちは、人間は死後に病や苦しみから解放された生活が続くと考え、死後の生活のために巨大な墓からなる広大な墓地を造成した。彼らの建築技術が死者の都市に生かされたばかりでなく、今日までその姿を残しているというのは歴史の皮肉である。

 エトルリア人は歴史における謎の民族の1つで、フェニキア人やギリシャ人との交流を通じて自分たちの言葉を書き残すためのアルファベット式の文字を考案した。おそらくローマ字に大きな影響を与えたと思われる彼らの文字の音を推測することはできるが、彼らの言葉が他のどのような言語とも類縁関係がないためにその意味を解読できずにいる(大体、3割から4割程度しかわかっていないそうである)のは残念なことである。

 大英博物館に出かけると、エトルリアの遺物を展示する部屋が確保されていて、ギリシャともローマとも違う彼らの文明の姿を具体的に見ることができる。このような扱いは、この民族の歴史的な存在感が決して小さなものではないことを示すものであろう。訪問の際にエトルリアのアルファベットをノートに書き写したことなど、懐かしい思い出である。

 ところで、半ば伝説的な王政ローマ時代の7人の王のうち、最後の3人はエトルリア人であったといわれる。漱石の『吾輩は猫である』の3で、訪ねてきた迷亭をそのままにして苦沙弥が出かけてしまったので、苦沙弥の奥さんが相手をしているうちに、「何でも昔し羅馬に樽金とか云う王様があって」と言い出す。なんでも七代目だそうです。さすがに迷亭は物知りで、Tarquin the Proudのことだと気付くというくだりがある。Tarquin the Proudは英語のいい方で、ラテン語ではTarquinius Superbus(傲慢王タルクィニウス)というローマ王政時代の最後の王はエトルリア人ということになっているが、漱石はそこまでは書いていない。ローマでも縁が遠い話だと思っている苦沙弥の奥さんにエトルリアなどといってもわかるはずはないということであろうか。彼が王位を追われる経緯については有名な話があるが、それは別の機会に譲ることにしよう。

 イタリアのトスカーナ州(トスカーナとは、「エトルリア人の地」という意味だそうである)、あるいは半島に面したティレニア海(ティレニアはギリシャ語でエトルリアのことである)などの地名にエトルリア人はその名を残している。

 放送では最後にGuardando l'allegria della cerimonia funeraria o i visi sereni della coppia sul sarcofago, ci viene un po' da invidiare la loro visione dell'aldilà.(葬式の楽しそうな宴会の絵や、幸せそうな夫婦石棺の表情などを見ていると、彼らの死生観がちょっとうらやましくなります)と結んでいた。地上からはその姿を消したエトルリア人たちが、あの世から現代をどのように見ているか、好奇心がわくところである。
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