懐疑主義から抜け出せない

4月27日(日)晴れ

 以前、ある研究会の席でキルケゴールの『死に至る病』が話題になったことがあり、この本について発言するようなこともないまま、隣り合わせた先生に「和辻哲郎が若いころに、キルケゴールの思想について紹介していますね〕と話しかけたところ、「和辻さんのような頭のいい人は、哲学には向かない」という答えが返ってきたことを覚えている。私などは、頭が悪いから哲学には向かないと思っているのだが、頭のいい人も向かないということになると、誰が哲学をやるのだろうか。

 私が自分自身について頭がよくないと思うのは、抽象的・理論的な思考が苦手だということであり、和辻哲郎の頭の良さを問題にした先生は、物事をわかりすぎてあまり疑問をもたないような人は哲学には向かないという意味で言ったのであろう。それぞれの頭の中にある「頭の良さ」は意味が違うのである。頭がいいとか悪いとかいうことを我々は日常よく口にするが、その意味はそれぞれの発言者によって微妙に違っているようである。

 そうはいっても、頭がいい人は哲学に向かないということばは未だに強く記憶に残っている。優秀な学生が集まっている大学では、学生がいろいろなことをわかりすぎてしまって疑問をもたないことが問題であるかもしれない(もっともそういう例はあまりないようである)、それほど優秀ではない学生の集まっている大学で、わかっていないことをわかったふりをしてごまかす学生が多いことはもっと問題であるかもしれない。

 わかっていないということが分かっていれば、わかっているふりをして切り抜けた後で、自分で調べなおすということもあるとはいうものの、実際に優秀な学生がより多く集まっているという定評のある大学で教えたときのほうが、学生から「わからない」「説明してくれ」という要望が多かったような記憶がある。自分がどこまでわかっているのかが、あまりよく分かっていない学生に質問を強いて、無理に取り繕った質問をされるのも気持ちが悪い。

 疑問をもつことはいいことである。しかし何でもかんでも疑ってかかるのも考え物である。適度に疑問をもてというのも胡散臭い。他人に判断を預けるのは無責任である。自分の頭で考えることはいいことである。しかしそのためにはある程度の予備知識と、思考を共有できる友人の存在が欠かせない。何事も極端に走るのはよくないが、中庸がいいのだなどと説教するのも虫唾が走る。懐疑は本来方法的・手段的なもののはずだが、なかなかそこから抜け出すことができない。
スポンサーサイト

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

プロフィール

Author:tangmianlaoren
FC2ブログへようこそ!

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR