『徒然草』と源範頼

4月24日(木)
 4月23日に河添房江『唐物の文化史――舶来品から見た日本』(岩波新書)を読み終える。唐物(=舶来品)が古代から近世までの日本文化史の中で、どのように扱われ、評価されてきたのかをたどった書物であるが、この中に『徒然草』の中で兼好が彼の時代の唐物ブームについて批判的であったという記事がある。北条氏の一族であり、金沢文庫を設けた金沢貞顕と交流のあった兼好は少なくとも2度金沢(横浜市金沢区)の地を訪問・滞在しており、この地の上行寺に庵を結んで暮らしながら、金沢文庫にも通っていたらしい(このことから、現在の金沢文庫では兼好に関連する図書を収集している)。上行寺のある六浦は中世において鎌倉の外港として重要な役割を持っていたが、『徒然草』120段における唐物愛好への批判は、六浦の港に大量に陸揚げされる唐物を見て書かれたという説さえあるという(河添、120~23ページを参照のこと)。なお、上行寺の山号は六浦山である。(この寺はもともと金勝寺という真言宗の寺であったのが、日荷上人によって日蓮宗の寺とされたという。これがいつの時代のことであったのか、調べてみる必要がありそうである。)

 ところで、4月20日に読み終え、4月21日付の当ブログでも紹介した今野真二『日本語の考古学』(岩波新書)にも『平家物語』の成立に関連して『徒然草』の226段が引用されている。「信濃の前司行長」という人物が『平家』の成立に大きくかかわったという有名な段であるが、その中に「九郎判官のことは詳しく知りて、書き載せたり。蒲冠者の方はよく知らざりけるにや、多くのことども記し洩せり」という個所がある。義経のことはよく知っていたので詳しく書いたが、蒲冠者(範頼)のことはよく知らなかったためか、多くのことを書き漏らしているというのである(今野、120~2ページを参照のこと)。

 中学・高校の6年間、京浜急行に乗って学校に通っていた。その途中、金沢八景のあたりに源範頼の墓があるという標識のある寺を見かけていたと記憶する。それで検索をかけて調べてみたところ、太寧寺という寺に範頼の墓があるほかに、もともと彼の別荘があった地に建てられた薬王寺にも彼の位牌があるそうである。つまり、金沢は範頼ゆかりの地であって、曽我兄弟の仇討の際の言動を兄の頼朝から疑われて修禅寺に幽閉され、殺害されたという範頼が実はそこから脱出して金沢まで逃れた(その際に上陸したのが追浜であった)という伝説もあるようである。

 墓と書いたが、実際には供養塔であろうが、範頼の墓は修禅寺(地名は修善寺、寺名は修禅寺)と、今書いた太寧寺以外にも存在する。弟の義経が平泉で死なずに北海道に渡ったとか、大陸へと渡ってジンギスカンになったとかいう話ほど華々しくないが、範頼も埼玉県、福井県、愛媛県に逃げたという伝承があるらしい。福井県(越前の国)で儲けた子どもの子孫からは、陸軍中将になった人が出たという話もあり、大将ではなく中将というところが範頼の子孫らしいと思う。

 源平合戦の時代から、兼好の時代までは150年弱の時間が流れているが、この時代は一般のリテラシーが現在ほど高くはなかったから、様々な出来事が口承で大量に伝えられていたはずである。さらに、兼好の時代は源平の争乱の結果として成立した鎌倉幕府の滅亡、南北朝の動乱の時代であったので、『平家』についての関心はかなり生々しいものであったはずである。とにかく、兼好は金沢で過ごした時間があったために、範頼について普通の人よりも多くのことを知っており、そのために『平家』には不満があったのかもしれない。だとすれば、『徒然草』の中で彼の知っている範頼の事績をいくつか書いておいてくれれば話は違ってきたのではないかという気もするのである。
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