詩を書くということ

4月13日(日)晴れ後曇り

 椎名誠さんの書いているものは好きで、よく読んでいるのだが、ごくまれに、承服しがたい意見に出会うことがある。最近出た『北への旅 懐かしい風に向かって』(PHP文芸文庫)という本については、3月17日の当ブログで書評を書いたが、その時はやめておいたけれども、どうも気になる個所が1か所あって、その部分について改めて書いておきたい。

 それは184ページから187ページにかけて掲載されている「野辺の花に」という文章の中の、北東北の農村の風景を眺めていて「宮沢賢治だったら、ここでどんな宮沢賢治の『ことば』を紡ぎだすのだろうか。そんなことを考えているとたちまち一時間は過ぎてしまう」(186ページ)という個所である。

 宮沢賢治という言い方があまり気に入らない。賢治、あるいはもっと親しみを込めて賢治さんというほうがこの詩人には似つかわしいというのは、ファンの言いぐさであろう。私はそれほど賢治には肩入れしているわけではない。ただ、自分が詩を書いているからその経験で言えるのだが、「どんな宮沢賢治の『ことば』を紡ぎだすのだろうか」という表現のよそよそしさは許せないと思うのである。賢治の詩はもっと自然に彼の内面から出てきた言葉を並べたものだと思う。

 グリム童話に口を開くと、言葉が金貨になって出てくるという話がある。それほど無理に考えなくても、詩を作ることのできる人がいるし、そうかと思うと、いくら考えても詩が作れない人もいる。賢治が自分の作品を「心象スケッチ」と名付けたことはさておいても、彼がわりに自然に詩を書くことができた人であることは否定できない(その詩、もしくは「心象スケッチ」を文学的にどのように評価するかはさておいても)。「自然に」という言葉はあまり好きではないのだが、賢治が「自然に」詩を書いた人であると思うので、「紡ぎだす」という表現には違和感があるのである。

 椎名さんが当代一流の散文家であることは多くの人々が認めることであろうが、その一方で、詩が分からない人であると言えるのかもしれない。ちょっとした言葉の切れ端をとらえて、そういうことを言うのは全く失礼なことではあろうが、気になったことなので書き留めておく。
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