飯沼賢司『八幡神とはなにか』(2)

4月7日(月)晴れ、日差しは温かかったが、まだ風は冷たく感じられた。

 東大寺の大仏造立に八幡神が深くかかわっていることは、歴史的な事実としては知っていたが、それがなぜかということにまで考えが至らなかった。この書物はこの問題を解き明かそうとする試みである。実は私、若い頃に東大寺の大仏造立についての展示物の作成に携わった経験があり、その後は2回ほど、外国人を案内して東大寺を訪問したことがある。それで、東大寺には特別の思い入れがある。それで、今回は多少の脱線をするかもしれないが、我慢して付き合って下さい。

 『八幡神とはなにか』の第2章は「仏に帰依した神」と題されている。まさにこの性格のために神仏が融合した神仏習合による鎮護国家の実現に決定的な役割を果たすことになる。その実現は鋳造が終わって間もない大仏を拝するために八幡神が入京することによってなされたのである。

 著者は九州で活動しながら聖武天皇の鎮護国家の体制の確立に大きな役割を果たした法蓮と、畿内にあって大仏造立のために力を尽くした行基に、その活動範囲の違いにもかかわらず共通点があると主張する。両者ともに中国に留学して玄奘に学んだ飛鳥寺の道昭と何らかの接点をもち、その宗教思想の影響を受けていると考えている。両者はともに山林で修行する生活を送っていたが、法蓮は医療活動としての放生を通じて鎮護国家の仏教の実践に努めた。他方行基は民衆の中に入り、道昭から学んだ土木技術を生かして人々の生活を改善することに意を用いた。行基の仏教は当時の国家仏教のあり方に反するものであったために弾圧をうけるが、天平12(740)年に河内(大阪府柏原市)の知識寺の盧舎那仏を観て、知識(同信集団)の素晴らしさを認識した聖武天皇により大仏造立への協力を求められることになる。聖武天皇は自らが発願主となり一大知識を結集して大仏を建立しようと考えたが、そのためには行基と彼に従う人々の協力が不可欠であった。

 聖武天皇は行基とともに菩薩国家の実現を目指すが、それに対する反対にも根強いものがあった。反対勢力は、奈良に拠点をもつ藤原氏と考えられるが、その中心は天皇の最も身近な存在であった光明皇后であり、その下で頭角を現した藤原仲麻呂であった。皇后について、「二人の関係は決して蜜月の関係ではなく、藤原氏という氏の影を背負う皇后と藤原氏の影を嫌う天皇との間には冷たい風が吹いていた」(67-8ページ)とする万葉研究者の説を援用したりしながら、天皇と皇后・仲麻呂の対立を描き出す。やがて情勢は後者に有利に傾き、大仏は奈良に造られることになる。「天皇には、藤原氏の氏寺の春日大社と興福寺の前にある金鐘寺の地に、律令国家の中心となる東大寺を建設するのは、藤原氏に屈することのようにしか思えなかったかもしれない」(69ページ)。一方、「光明子は唐の高宗帝の皇后で後に皇帝となった則天武后が造立した龍門の盧舎那石仏をイメージしていたのではないだろうか。それは天皇の理想とする民衆的「知識」が、「一枝の草、一把の土を持ちて造を助け造る」という造営形態とはまったくかけ離れた官僚主導の形態となったといわれる」(69-70ページ)。このような造立形態のなかでは行基もその役割を演じることができず、天平21(749)年にこの世を去る。通説では天皇は意欲を失って娘である阿部内親王に譲位し、孝謙天皇が登場するということになるのだが、聖武天皇はそれほど簡単に理想を捨てるタイプの人物ではなかったというのが著者の考えである。

 平城京の東大寺で再開された大仏造立は、天皇の意に沿うものではなかったが、大仏を中心とする法都の夢は現実のものになりはじめていた。聖武天皇は天平20(748)年に造東大寺司を設置して、造仏所・写経所の管轄権を皇后から取り戻し、大仏主導権の回復をもくろみ、また八幡神の神官たちに位を授けて入京への布石を打っていた。さらに左大臣橘諸兄をはじめとする側近の勢力の強化に意を用いた。その後、天皇は仏道に専念するためと称して退位するが、これは退位によって天皇制の枠を超え、聖・俗のトップを一体として支配しようと考えたのであると理解している。

 天皇の理想は多くの人々が大仏造立の事業に参加し、そのことによって「凡夫の菩薩」の道を歩みはじめることにあったが、実際には多くの民衆は仏教とは無関係であった。『このような仏教とは疎遠な多くの人々を、菩薩の道に導くには、最後は日本のすべての神々の仏教への帰依が必要であった。ここで企画されたのが、八幡神の入京という一大イベントである。/八幡神は軍神として律令国家の西方の境界を護り、放生という仏教的手段によって、殺生によって引き起こされる病から国を護った。その意味で、八幡は日本初の鎮護国家の神であった」(74-5ページ)。天平勝宝元(749)年に八幡大神は託宣して平城京に向かう。

 こうして八幡神の女性神官である禰宜の大神杜女が東大寺に入り、大仏を拝んだ。彼女はシャーマンであり、神が乗り移った状態で大仏を拝んだことは、神が大仏を拝んだことであると理解できる。「日本で最も早くから仏教と遭遇し、仏教的医療行為である放生ということを通じて、鎮護国家を実現しつつあった八幡神は天神・地祇すなわち、日本のすべての神々を仏教の道に導く神として、神々の頂点に立ったのである」(77ページ)。八幡入京は、天皇の支配するすべての国土の神々を仏教の道へ誘うという一大イベントであった。

 しかし、反対勢力は皇后宮を発展させ、紫微中台という太政官に準ずる巨大な役所を作り始める。これは光明子と藤原仲麻呂が、聖武太上天皇の政策に対抗する措置であり、両者の綱引きが公然と行われるようになる。天平勝宝3(751)年には聖武太上天皇が重病となり、翌年の大仏開眼供養に際して、東大寺の記録では聖武、光明子が東大寺に行幸したとされるが、『続日本紀』には孝謙天皇の行幸しか記されていないという。

 光明子と仲麻呂の勢力が優勢になるにつれて、聖武に近い僧侶や神官が弾圧を受けるだけでなく、八幡神自体も一種の「配流」をうけることになる。天平勝宝8(756)年についに聖武太上天皇は亡くなり、菩薩国家の実現という夢は消え去る。

 飯沼さんの考えでは菩薩国家実現の理想を追う聖武天皇とより現実的な光明皇后・藤原仲麻呂の対立のなかで八幡神は天皇の理想の一端を担い、その実現を助けようとする存在であったということである。大仏開眼供養の盛儀の陰で政治的な綱引きが行われていたというのは文学の題材になりそうである。昔、有吉佐和子の『光明皇后』という戯曲の舞台中継(文学座)をラジオで聞いたことがある(古いね)が、それよりも面白くなりそうな感じがする。

 大仏開眼供養の際に開眼師を務めたのはインドから中国を経由して日本にやってきた菩提僊那という僧で、東大寺の四聖の一人に数えられる(あとの3人は良弁、聖武天皇、行基)。東大寺では菩提僊那ではなく、波羅門僧正という呼び方をしている。日本にやってきた菩提僊那と行基の出会いをめぐっては伝説があり、それをもとにして小説を書きかけているのだが、うまくまとまるかどうか。東大寺所蔵の「四聖御影」の写真を撮影させていただいたことなど、もう40年以上も前のことであるが、今でも覚えている。東大寺というとさまざまな思いが交錯してしまってなかなか収拾がつかないところがある。
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