森茂暁『太平記の群像 南北朝を駆け抜けた人々』(5)

3月29日(土)晴れ

 第5章は「室町幕府支配の確立」と題されている。実際のところ「確立」されたかどうかは怪しいところがある。それでも将軍の地位と権力は尊氏からその二男である義詮に継承された。義詮は尊氏が西国に派遣されるときに母とともに人質として鎌倉にとどめ置かれたが、その後脱出、新田義貞とともに鎌倉を攻撃し、陥落後も鎌倉に本拠を置いていわば鎌倉公方の初代としての役割を果たした。その後、鎌倉での役割を同母弟基氏に譲って上京、尊氏の後継者の地位を直義と争い、直義の滅亡後は父尊氏と二頭政治を行い、やがて将軍職を継承した。彼が発給した文書を見ると、彼の将軍職時代にその権力が次第に強力なものとなっていったことがわかるという。「尊氏から義満にいたる室町幕府の将軍権力の確立過程を段階的にみてゆけば、義詮の段階で将軍権力が飛躍的に高まることがうかがわれるから、義詮をいつまでも影の薄い存在に押しとどめておくことは室町幕府の成立過程を正しく理解する上で好ましくない」(258ページ)と著者は論じている。

 その弟の基氏は東国経営に全精力を注いでいたが、若くして没した。よくその任務を果たした有能な武将であったようである。

 義詮の執事を務めたのは細川清氏である。既にみてきたように将軍の執事は、高師直、仁木頼章が務め、さらに清氏のあと、斯波義将、細川頼之が務めるが、将軍家の執事という役柄から、幕府の政務の長官をも兼ねる役柄である管領へとその役柄を変化させてゆく、問題は誰からを管領とみなせるかということであるが、意見の一致はいまだ見られていない。「管領制度は、・・・守護たちの領国支配強化と将軍の親栽権の拡張という相反する二つの志向を調整し、止揚する職制的装置として登場する」(263ページ)と著者は考えている。この点で清氏の時代は重要な画期であったという。彼は前任の2人と違って、足利氏の有力な一門の出身であり、幕政においても一定の役割を果たしたのである。

 南北朝の戦乱を長引かせた原因の一つは武士たちの所領や所職、特に守護職をめぐる争いが絶えず、それぞれが目的のために手段を選ばず、去就を転々とさせたことにある。そういった有力守護大名のなかで得意な地位を占めるのがバサラ大名佐々木導誉であるが、彼は義詮から離反することはなかった。その一方で執事である細川清氏の失脚の原因を作りだしたのも彼である。

 室町幕府の存立に大義名分を与えたのが北朝であった。北朝の天皇・上皇のなかで『太平記』がもっとも多く登場させているのは光厳院である。世の中の動きにあらがって自分の主張を貫き通そうとした後醍醐天皇と対照的に、動きによってその地位を転変させる人生を送った。後醍醐天皇の京都復帰によって皇位から追われるが、尊氏が後醍醐天皇と対立すると「朝敵」の汚名を受けるのを避けるために、治天下の地位を保障される。「『太平記』は光厳院を登場させることによって、南北朝時代の特質、その時点での時代の要請をうまく表現している」(282-3ページ)と著者はいい、院への土岐頼遠の狼藉と直義によるその処理を描いて、幕府内の急進派と守旧派の対抗関係を描き出していること、また光厳院と後村上天皇の対面の場面を設けて(これはフィクションかもしれない)当時の平和への願望を描き出しているという2つの例を上げる。光厳院、その皇子である後光厳院はまだ幕府の力が十分に確立されていない時代にあって一定程度の政治的な働きをしたが、幕府の権力が拡大していくとその政治的な実質を失っていった。

 幕府に従わない守護たちの討伐で頭角を現したのが、清氏のいとこの細川頼之である。守護大名の雄として管領に就任することになるが、このことによって(南北朝の対立はまだ続くのだが)天下は太平になったとして、『太平記』の著者はその筆を擱くのである。頼之の管領就任は死に直面した義詮が、まだ幼い義満の前途を気遣っての任命であったが、頼之はその任務をよく果たし、義満の将軍としての地位を不動のものとするのである。その一方で彼は守護たちの支持を失った時には、その地位を退かなければならなかった。

 <太平記の群像>として、後醍醐天皇、護良親王、足利尊氏、直義、直冬、新田義貞、楠木正成、正行、名和長年、北畠親房、顕家、高師直、佐々木導誉などは目立った存在であるが、それ以外にもさまざまな人物を取り上げてそれぞれの人となりを実証的に再現しようとしている。著者は歴史学者なのでその側面から、特に社会史的な側面を強調して迫っており、その半面で文化史的な考察は弱い。高師直がらみで登場する兼好については全くエピソードとしてしか触れていないのはちょっと残念である。吉川英治の『私本太平記』がおそらくは奈良本辰也の影響のもとに芸能民の活躍を描いているのは文学的想像だとしても、光厳院の歌人としての側面を高く評価する意見もあるのだから、もう少し文芸的な面に踏み込んでもよかったのではないかという感想もある。

 この書物にはさらに『太平記』全般の性格をめぐる「付論」がつけられており、それについてもさらに意見を述べていくつもりである(つまり、もう1回この書物について書くということである)。 
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