長谷川修一『旧約聖書の謎』

3月28日(金)晴れ

 長谷川修一『旧約聖書の謎』(中公新書)を読み終える。同じ著者の『聖書考古学』(中公新書)を昨年の2月23日付の当ブログで紹介している。その際、聖書のなかの歴史的な記述を中立的・実証的にとらえ直そうという著者の立場に賛同しながら、注文も付けておいた。この書物では考察の対象を旧約聖書に限定して、その中の歴史的な記述が歴史・考古学研究の知見に即してどのように理解されるかが論じられている。第1章「ノアの方舟と洪水伝説」、第2章「出エジプト」、第3章「エリコの征服」、第4章「ダビデとゴリアトの一騎打ち」、第5章「シシャクの遠征」、第6章「アシェクの戦い」、第7章「ヨナ書と大魚」について考察が進められている。ダビデとゴリアトについては、前著『聖書考古学』でも触れられていた。著者が特に力を入れて研究している問題のようである。

 「ノアの方舟と洪水伝説」では、ノアの物語がシュメル以来のメソポタミアにおける伝承を継承したものであること、それらの伝承が自然災害の恐ろしさとそれに立ち向かい、復興に努める人々の現実を反映したものであること、さらにメソポタミアの伝承における神の意思が多神教的な枠組みの中にあるのに対し、旧約ではそれが唯一の神の意思に帰られていることを指摘しながら、「ノアの方舟の物語は、西アジアの人々が語り継いできた、普遍的なテーマをもつ洪水伝承の後継者といえよう。また、その話が今日まで聖書のなかの物語として私たちにまで伝わっているところに、聖書が全人類に果たしてきた大きな文化史的役割を見出すことができるだろう」(29ページ)と結論している。

 シュメル以来のメソポタミア文明との関連で旧約聖書をとらえることが重要であるという考えは十戒とハムラビ法典をはじめとするオリエントの諸法には一致する部分があることから、「出エジプト」にも及んでいる。ここでは旧約に記された「出エジプト」がいつ頃のことか、またどのような規模と性格をもつものであったことかがこれまでの研究成果を検討しながら論じられ、確定的なことはあまり分からないという研究の現状が報告されている。さらに日本の世界史教科書が「出エジプト」を歴史的な事実のように記載していることについての苦言も呈されていることが注目される。

 ダビデとゴリアトについてもさまざまな研究成果を踏まえて縦横に論じられているが、まだ確定的なことは分かっていないと慎重な態度に終わっている。そして「この物語が話自体の面白さと同時に放っているのは、神を信頼し、強大な敵に果敢に挑む姿の重要性、というメッセージであった」(130ページ)と結ぶ。たしかにこの物語は、歴史よりも文芸の領域で取り上げるべき要素が多いようである。

 「ヨナ書と大魚」は、旧約の内容を歴史的な事実に即して検討する他の章とは違って、この物語があらかじめフィクションとして構想され、読む者が預言者でありながら神の与えた使命から逃げ続けるヨナの「頑なさの中に自分たち自身のかたくなさを、ヨナの偏見の中に自分たち自身の偏見を見ることができるように」(211ページ)書かれているという。ヨナの非イスラエル人に対して抱く偏見が滑稽なものとして風刺の対象となっているという指摘に物語の今日的な意義を感じ取ることができる。

 ここで紹介しなかった部分も面白くないわけではない。昨年私は『聖書考古学』の中になぜ歴史的な内容を盛り込んだ歴代誌への言及がないのかという疑問を書き記した。著者は第5章で「歴代誌は・・・サムエル記と列王記の内容をベースとし、そこにさらに歴代誌筆者の神学的解釈を加えて書かれたものである」(157ページ)とその性格を論じていて、私の疑問に答えている。著者が私の論評を読んだかどうかは分からないが、私の疑問が特殊なものではなかったと知って安心した次第である。

 全体として謎は謎のままに終わっている場合が多く、それがかえって旧約聖書という書物の面白さを浮かび上がらせているように思われる。キリスト教(あるいはユダヤ教)を信じようと信じまいと、その面白さを味わうことはだれにでも可能であることを教えてくれる書物でもある。
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