森茂暁『太平記の群像 南北朝を駆け抜けた人々』(2)

3月23日(日)晴れ

 墓参りに出かけたり、パソコンの買い替えのため時間がつぶれたりで、なかなか落ち着いてぶんしょうをまとめるじかんがとれないまま過ごした。それで本日は、第3章「足利尊氏」の、それも前半の尊氏と直義の兄弟関係について論じた部分だけを取り上げることにする。この章は「足利尊氏」と題されているが、尊氏だけでなく、その周辺の室町幕府の成立にかかわったさまざまな人物が取り上げられている。その中でとくに重要な存在は尊氏の1歳年下の弟である直義である。

 尊氏とその弟の直義の兄弟はあるときまでは緊密に手を取り合って行動していたのに、その後激しい対立関係に陥る。尊氏については既に第2章で、その鎌倉末期から建武の新政までの動向が記されていたが、この間の直義の動きについては論じられていないとして、彼の動きを簡単に述べる。直義が『太平記』に登場する最初の場面が印象的である。尊氏は幕府軍に加わって上洛する際に、北条高時より人質として妻子を鎌倉にとどめるように命じられ、どうすればよいかを直義に相談する。直義は「大行は細瑾を顧みず(大事をなす時は小事を無視してもやむを得ない)」ということわざを引いて、動揺する尊氏を引き締めている。このように尊氏を直義が積極的にリードする場面が『太平記』にはたびたび現れるという。

 直義は尊氏に従って上洛し、尊氏とともに六波羅攻めに加わり、これを陥落させた。新政権で用いられ、成良親王を奉じて鎌倉に赴く。新政権のもとでの直義の活動は、鎌倉を拠点とした関東の統治に重点が置かれる。直義にとって見ると鎌倉は足利氏を中心とする武家勢力の結集の核であって第二の武家政権樹立が竊に企てられていた。その背後には関東地方に根を張る大豪族的領主層の支持があった。このように直義によって準備された武家政権樹立の構想を現実のものとするには源氏の嫡流と自他ともに認める尊氏の存在が必要であった。京都にいた尊氏は中先代の乱の鎮圧のために鎌倉にむかい、乱が終息した後も鎌倉に留まり、直義の説得によって後醍醐天皇に反旗を翻すに至る。

 『太平記』の筆致は直義に対し、全体に厳しいと著者は指摘する。彼は目的のために手段を選ばない冷徹な人物として描かれている。しかし、その一方で、直義の冷徹だが禁欲的な性格と、直義を熱烈に支持するグループがあったことを『太平記』は見落としていない。彼は光厳上皇に代表される王朝などの伝統的な保守勢力との強いつながりももっていた。『太平記』が急進派、快楽志向型の人物として描く尊氏側近の高師直とは対照的な描き方をされている(その2人のあいだで何となく動揺しがちな尊氏というのも歴史的にはともかく、文学的には見事な造形である)。また直義は門地よりも文道を重視する性格の持ち主であったという今川了俊の証言を引用している(文武両道とか、兼備ということからすれば、もっともそれにふさわしい武士の1人である今川了俊が言っているのだから重みがある)。

 室町幕府開創期の政局は、尊氏と直義による二頭政治であった。将軍尊氏は、将士に対する恩賞の給付、守護・地頭職の任免などを行い、直義は土地関係の裁判を担当した。今川了俊の『難太平記』には尊氏は「弓矢の将軍」、直義は「政道」と両者の分担関係が要約されているという。「しかし、このような幕府の権力機構の分割は、幕府を支える諸勢力の利害関係と複雑に結びつき、内紛を引き起こすことになる。内紛とは、いわゆる観応の擾乱である。将軍権力の一元化は、幕府政治の安定化にとってさけて通れない課題だった。結果的に言えば、尊氏はこの内紛を大きな犠牲を払うことによって収拾し、難題を克服するのである」(143-4ページ)と著者はまとめている。

 では「観応の擾乱」はどのようなものであったか。このころ、各地で所領や生産物をめぐる抗争が顕在化していた。「荘園の簒奪を通して自己の領主的発展を遂げようとする急進的小武士層と、これを排除して荘園制的秩序を守ろうとする寺社権門との抗争、一族内の惣領と庶子の抗争など、さまざまの階層における守旧派と急進派との間の抗争は、大きく2つの対立する政治勢力を形成した。幕府の二頭政治はこうした対立関係と結びつき、観応の擾乱の導火線となった。急進派が尊氏―師直を支え、守旧派が直義を支えるという図式である」(144ページ)。

 南北朝の動乱を武家の側から描いた『梅松論』には夢窓疎石が尊氏が仁徳の他に、心が強く、慈悲深く、寛容であるという3つの徳を備えていると賛美したことが記されているという。しかし著者は『太平記』のなかで、尊氏が合戦の最中、進退きわまって自害しようとして周辺のものにとめられる場面がよく出てくることを指摘している。あるいは「心強きこと」というのは、夢窓が尊氏を励まそうとして言ったことかもしれないなどと思う。(『太平記』は南朝寄り、『梅松論』は幕府よりという見方が何となく定着しているが、『太平記』はそれほど単純な書物ではないことも、この書物では論じられている。)

 尊氏と直義の関係は歴史的にも文学的にも興味深いものである。この書物では詳しく触れられていないが、尊氏の正室で北条一門の出身である赤橋登子は、吉川英治の『私本太平記』では評判の美人として描かれている。それはさておき、2人のあいだの子どもたち、二代将軍義詮、関東管領となる基氏は(この書物でもあとから登場するが)、比較的できがいいという印象がある。その意味で、頼朝と政子のあいだの子どものできがあまりよくなかったことといろいろな意味で対照的ではないかと考えている。
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