森茂暁『太平記の群像 南北朝を駆け抜けた人々』

3月22日(土)晴れ

 森茂暁『太平記の群像 南北朝を駆け抜けた人々』(角川ソフィア文庫)を読み終える。1991年に角川書店(当時)から刊行された『太平記の群像―軍記物語の虚構と真実』(角川選書)を文庫化したものである。既にこのときに買って読んだはずであるが、読み直してみて、記憶が蘇らないのは困ったことである。

 『太平記』は、軍記物語の中でひときわ高く評価されている傑作であり、これまで主として国文学の分野での研究材料となってきた。この書物は、歴史学の見地から『太平記』を見直そうとする試みの1つである。「『太平記』の描く南北朝時代は、日本史上、他に例を見ない大規模な動乱の時代だった」(9ページ)。日本全土が動乱の渦の中に巻き込まれ、政治・経済はもとより、庶民の生活・文化にまで大きな影響が及んだ。それだけでなく、この動きは海外へも及んだ。「南北朝の動乱は、人々の生活と活動の場を、国の内外に、格段に押し広げたのである。/こういった時代に、思う存分、駆け回った人々の顔は輝いていよう。反対に、処世に失敗して、失意のどん底で、悲嘆にくれる人々の声も聞こえるようである」(10ページ)と著者は言う。

 それゆえ、『太平記』を日本史の資料として活用すれば、新たな発見の可能性が生まれる。とはいえ、現在手にすることのできる『太平記』は写本であるし、物語自体も史実に基づいているとはいえ虚構を含んでいる。とはいえ、この物語はその成立の過程で多くの資料や証言が集められてまとめられている。したがって慎重に取り扱っていけば、史実とそれに対する同時代の人々の評価を読みとることができるはずである。そこで、著者は『太平記』に登場する人々をめぐり、その生きようと役割をできるだけ確かな史料に基づいて明らかにすることを試みている。

 第1章「傍系たちの反逆」は後醍醐天皇とその周辺の人物について考察している。『太平記』の本文は、後醍醐天皇の紹介から始まる。南北朝動乱の時代の幕開け役を果たしたのが後醍醐天皇であるから、これは当然のことである。『太平記』巻1は後醍醐天皇の善政を記し、その「聖主」「明君」ぶりを称えている。特に物資の流通を阻害する新しい関所の停止、飢饉で庶民が苦しんでいるときに米価を定めて売らせたこと、天皇自身が訴訟をじかに聞き、理非を決断したことの3つを高く評価している。しかし、そうはいっても、『太平記』は後醍醐天皇の政治を全面的に賞賛しているわけではない。彼が覇者的で狭量な政治を推し進めたから、その政権は短命におわったのだと、「実に手厳しくかつ的確な批判の言を付するのを忘れていないのである」(15ページ)。『太平記』はどちらかといえば、儒教的な政道観に立って、個々の場面に則して是々非々の判断を下していると著者は指摘する。また後醍醐天皇の政治振りを記した記事が正確な史料に見える一方で、『太平記』の記述との対応関係をめぐっては議論があるという。

 「傍系」というのは、南北朝時代の遠因となっているのが皇位の継承をめぐる持明院統と大覚寺統の対立であり、後醍醐天皇はその大覚寺統の「傍系」=後宇多天皇の第2皇子であり、本来ならば皇位を継ぐ立場になかったのが、兄の後二条天皇が若くして亡くなったために「一代の主」=一代限りの中継ぎの天皇として行為につくことになったことを指している。後醍醐天皇のあとに大覚寺統から皇位を継ぐはずだった天皇の甥(兄の子)の邦良親王が若くして亡くなるなどの環境の変化により、後醍醐天皇は新しい政治への野心を膨らませていくが、両統迭立の原則を守ろうとする鎌倉幕府が彼にとって最大の障害物に思われてきたと推測される。

 後醍醐天皇の后妃としては、権力者の娘として生まれ、天皇の政治的な野心に利用され、時代の波に翻弄されて生きた正室の西園寺禧子、天皇の寵愛を受け、幸運にも恵まれた阿野廉子の2人が対照的に取り上げられ、さらに歌道の大御所二条為世の娘で自らも和歌をよくした二条為子やその他の妃たちについても考察を加えている。また年長の皇子たち、一の宮で苦難の道を歩んだ尊良、早世した世良、武人親王護良、文人親王宗良についてそれぞれの経歴と性格が論じられている。

 後醍醐天皇の周辺には公家と僧侶をはじめとするさまざまな階層に属し、それぞれ目指す方向の違う人々がいた。彼らはそれぞれの特技を生かして、天皇に接近していた。公家を代表するのが代々の天皇に仕えた公家界の重鎮で、大覚寺統に忠誠を尽くしてきた万里小路宣房、エリート公家で幕府からも一定の信頼を得ていた吉田定房、鎌倉期から後醍醐天皇のもとで活躍する北畠親房、文筆系吏僚の家柄で持明院統に仕えてきた日野家の出身であるが後醍醐天皇の側近の1人となった日野資朝と、日野俊基らである。日野資朝や俊基は自らの意思で日野家の主流と反目する立場に立ったのであるが、一種の傍系だという評価がなされているように思われる。

 後醍醐天皇の周辺では僧侶たちも幕府調伏のための祈祷を行うなどして討幕運動に重要な役割を果たした。そのような僧侶として円観(恵鎮)があげられるが、彼はその後南北和睦をあっせんし、さらには『太平記』の編集にも携わったと考えられ、『太平記』においても特に重く扱われている存在である。さらに「法験無双の仁、文観、顕宗の碩徳仲円についても考察されている。

 第2章「建武新政の人間模様」では鎌倉幕府を倒すのに貢献し、後醍醐天皇の信任を得て短期間ではあったが高位・高官に昇った「三木一草」=「合理主義者、楠木正成」、「親衛隊長、名和長年」、結城親光、千種忠顕について、まず取り上げている。楠木正成と後醍醐天皇の出会いや正成の生まれについての『太平記』の記述のぎこちなさを指摘し、正成についてはまだ謎の部分が多いとして慎重な発言に終始しているのは専門家の見識というものであろう。

 また新政下での浮き沈みの様相として、得意の絶頂に上った阿野廉子、逆に失意に沈んだ護良親王、その諫言が受け入れられずに遁世した万里小路藤房、新政下で幕府時代にもっていた影響力を失って逼塞を余儀なくされ、謀反事件に巻き込まれる西園寺公宗、倒幕に貢献しながら新政下で重用されず、そのために変心する赤松則村、鎌倉幕府につかえ、建武新政権でも用いられたが陰謀が発覚して処刑された二階堂道蘊、新政権のもとで天皇の護持僧として活躍する文観と全くさえず、武士政権の到来を待ち望む賢俊という2人の僧侶の姿が描かれる。

 この章の最後に、『太平記』のなかでもっとも多く登場し、主人公的な存在である足利尊氏と、彼との対立・抗争の記述を通じていわば引き立て役を演じている新田義貞が取り上げられている。尊氏は六波羅を陥落させて後醍醐天皇の京都への復帰を実現させるが、新政権からは多少の距離を置き、武家政権の再建をはかろうとする。新田義貞は鎌倉を攻めて幕府を崩壊させる。もともと競争意識の強かった両者の対立は建武新政権の基盤を危うくすることになるが、現在残されている両者の発給文書を対比してみる限り、その活動の量と質には雲泥の差があると著者は論じている。

 5章からなる書物の2章までしか紹介できなかった。残りの部分については後日取り上げるつもりである。『太平記』には興味があるのだが、この書物でも紹介されている角川文庫版を読んだのと、(紹介されていない)新潮社から出ている版で2巻目まで読んだだけで、全体を読み終えていない。もっともかの吉川英治の『私本太平記』だって楠木正成の死という『太平記』全体のまだ半ばまでいかないところで筆を置いているのだから、5巻のうち2巻を読んだというのはまずまずの取り組みといってよいのである。

 優れた文学作品がそうであるように、『太平記』もいろいろな読み方ができる書物である。ここでは歴史学の側からの接近が語られているが、もちろん文学として、また文章として、政治哲学としての読み方もできる。文学としての読み方といっても軍記物語として他の軍記物語と対比して読むこともできるし、細部にこだわって、たとえば物語のなかの説話に着目したり、和歌に着目したりして読むこともできる。個人的な好みからいえば、細部にこだわるほうが好きで、この書物のなかでも、物語の挿話を史実に照らして考察している部分に特に興味をもった。
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