柄谷行人『遊動論 柳田国男と山人』(5)

2月26日(水)晴れ後曇り、温暖

 柳田国男は日本に先住していた山人たちの生活のなかに遊動性、ユートピア性を見出したと考え、山人についての著作を発表しなくなっても、このような遊動性の探究をやめなかった。南島への着目もそこに山人と共通する生活や精神を認めたからであると柄谷さんは論じる。日本が政治的・経済的な膨張主義に走った時代に柳田は一国民俗学を主張し、定住民に目を向けたが、それは脱領域的な拡大と移住に反対してのことであった。

 『遊動論 柳田国男と山人』の第4章「固有信仰」は、日本の固有信仰をめぐる柳田の取り組みについて考察している。柳田は山人について書くのをやめた後、神道の中に焼畑狩猟民である山人の信仰の痕跡を求めようとした。ヨーロッパの民俗学は、実際は、キリスト教以前の信仰状態を探ることと結びついていた。柳田はそのことをハイネから学んだ。しかしもともと日本神道の原始形態には関心があったのである。柳田の父は中年になってから平田派の神官となった人物である。しかし柳田は平田が神道の中から外国の要素を排除するだけでなく、海外の神もその実体は日本の神であるというような侵略的態度をとったことを批判する。平田篤胤の師である本居宣長は神道が仏教や儒教の理論を利用しながら体系化を図ってきたことを視野に入れて、古代の人々の現実の生き方の中から日本人の本来の生活と精神を知ろうとした。そのような「古の道」を宣長は『古事記』に見いだそうとし、自らの学を「古学」と呼んだ。それを「国学」としたのは平田である。

 柳田の考えは宣長に近いが、彼は宣長が文献のみに頼ったことを批判した。国学者や神道学者が、固有信仰が仏教によって消されたとか、歪められたと考えたのに対し、彼は固有信仰の側に生じた綻びあるいは欠落を、仏教が補填したと考えていた。固有信仰は仏教のなかにその痕跡をとどめたと考えられていた。しかし、固有信仰そのものの姿は民俗学の探究の限界を越えたところにある。柳田は祖霊信仰こそ固有のものであったと考えていたが、それを証明することができないいらだちが彼には付きまとった。

 柳田の主張する固有信仰は他に例のない独特のもので、生者と死者との相互信頼性がその核心にあると考えられていた。このことは柳田が遊動民の富と権力の不平等や葛藤がない社会を前提としていたからであると柄谷さんは論じる。彼が日本社会の「家」や「祖霊」について考えた事柄の多くは母系でも父系でもない双系的なものを予想していたと考えられるという。双系は家を血のつながりから独立させる。さらには先祖を血縁とは無関係に考えることもできる。(柳田自身が養子として祖霊を祀ったことも指摘されている。)

 柳田は村の人々の現実の祖霊信仰から、日本の固有信仰の性格に迫り、さらにそこから普遍宗教を見出そうと考えていた。彼の民俗学の探究の対象が限定されていた時期にあっても、彼は普遍的な人間の生き方と精神を探究しようとしていたのである。

 「付論」では遊動生活を狩猟採集民のそれと遊牧民のそれとに分けて考えるべきことを主張し、柳田が一貫して狩猟採集民への関心を抱いていたと論じている。(そういえば、江上波夫の騎馬民族説に対して柳田がどのように反応したかなど、柳田の古代史研究に対する態度についても興味がわく。)

 柳田と固有信仰、神道の関係については、こちらの読み方が悪いのかもしれないが、どうも説明が不足しているように思える。あるいは別の書物の主題としてあらためて論じてみる方がよいのではないか。どうも消化不良の感じが否定できないが、一応書物の概要は紹介したつもりである。柄谷さんの主張は主張として理解したつもりであるが、この書物の中で批判されている柳田をめぐる先行研究について、読んでいないものが少なくないので、あらためて読みなおしてみようと思った。 

 
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