柄谷行人『遊動論 柳田国男と山人』(4)

2月24日(月)曇り

 柄谷行人『遊動論 柳田国男と山人』第3章「実験の史学」の続き。柳田の民俗学が日本一国の枠の中に閉じこもっていることを批判する議論に対し、日本が膨張主義に向かった時代に「一国民俗学」を主張したことの意義を柄谷さんは強調する。「山人」の生活の記憶の中に「協同自助」の精神を読みとった柳田は「山人」を弔うことを彼の民俗学研究の出発点とした。それゆえ柳田にとって植民地化の「未開社会」を研究する民族学と「同胞の文化」を研究する民族学という区別は存在しなかった。

 柳田は当初「山人」について考えていたが、昭和に入ってそれを放棄し、戦後には南島(沖縄)に稲作=日本文化の起源を求めたと一般には理解されている。柄谷さんは柳田が沖縄に向かったのは大正時代の1920年であり、その翌年に国際連盟の信託統治委員となってジュネーヴに向かったという事実を指摘して、これに異を唱える。

 村井紀さんは、柳田が官僚として日韓併合に深く関与したことへの自責の念から沖縄に向かい、南島に起源をもった日本民族の同一性という神話を創ったと論じているという。柳田が日韓併合への関与を悔いたことはおそらくは正しいが、その過去から逃げるために沖縄に向かったというのは違うと柄谷さんは論じる。柳田は官僚を辞めた後に沖縄を訪問したが、そのあとすぐにジュネーヴに向かっている。彼は日韓併合の問題を忘れようとしたのではなく、それをより普遍的な植民地支配という視点から見直そうとしたのである。ジュネーヴからかえった後に朝日新聞論説委員として彼は米国の排日移民法に憤激する日本の世論に対して、日本は近隣民族に対して同じことをしているのではないかという反省を促す議論を展開したのである。

 沖縄を訪問することによって、柳田は日本が島国であることにあらためて思いいたる。柳田は祖霊信仰に関して、死者の霊は近くの山の上に向かうという。しかし沖縄では海の向こうに行く。そのどちらも孤島における現象であるから、どちらが本来の姿であると問うことは意味がないと考えた。また彼は沖縄訪問によって中央と、その中央から差別され収奪を受けている周辺という構造を見出したが、同じような中央と周辺の構造を東北についても見出し、周辺に住む人々の問題を解決すべきであると論じた。彼は国際連盟での経験を通じて日本を含む列強諸国による植民地支配が経済合理性に照らして結果的に不利益をもたらすと考えた。これは「小日本主義」を唱えた石橋湛山らと共通する主張であると柄谷さんは論じている。柳田は植民地支配や、周辺部に住む人々への収奪に反対したが、被支配者を保護するのではなく、彼らが過去にもっていた「協同自助」の精神を思いだし、そこに立ち返ることによってその力量形成を行うことを期待したのである。そして「協同自助」の精神を思い出す手掛かりとなるのが民俗学であった。

 柳田は「山人」論を撤回したというのが通説であるが、彼は問題をより普遍的な見地から見直そうとしたのであり、撤回はしていないと柄谷さんは論じる。ジュネーヴから帰国した柳田は朝日新聞論説委員として普通選挙の実現のために尽力するが、その結果実現した選挙の結果に失望する。依然として農村の人々は従来からの地域の顔役たちの意のままに投票していたからである。ではどうすれば人々が自分の意思によって政治的な意見を表明するようになるのか。公民教育が必要であり、その中心となるのが「公民の民俗学」であるが、その際に柳田は欧米の制度や思想に学ぶのではなく、日本の前近代社会の人間の結びつきの中に求めていこうとする。前近代の日本には親・子というタテの労働組織とともに、結(ユイ)というヨコの労働組織があり、このユイを再認識することが求められる。(戦後、柳田が中心となって編纂した教科書の中に、結について小学生に分かりやすく説明する記述があったことを思い出す。ただ、農村の多くの子どもではなくて、ごく少数の、それも都市の子どもしか彼の思想に触れる機会がなかったのはまことに逆説的であり、残念でもある。)

 普通選挙の実現とその結果を踏まえて柳田がなそうとした「公民の民俗学」の追求は経済恐慌や満州事変によって成功しなかった。この時期のナショナリズムは一国に限定されず、対外膨張的な性格をもつものであり、建前にすぎなくても帝国主義や資本主義を否定し、克服して新しい社会体制を樹立しようとするものであった。現実には帝国主義が続いているのに、それが超克されたかのように語られたのである。民俗学においても「比較民俗学」や「世界民俗学」という提言がなされ、柳田は孤立を深めた。彼が「一国民俗学」を主張したのは時流への抵抗という側面を持つが、他方彼の学問的方法の帰結でもあると柄谷さんは論じる。

 では彼が確立した学問的方法とはどのようなものか。柳田が刊行した雑誌『郷土研究』をめぐる南方熊楠との応酬の中で、彼の目指すものが社会学や歴史学を含む、それらに分節できない農村生活史(誌)であるという。つまり、広義の歴史学というべきものである。つまり彼は民俗学を史学の中に位置づけようとしたのであり、この意味から民俗学は一国的でなければならなかったのである。彼は歴史学の知を文献や遺物だけでは知り得ないような領域に広げようとした。それは人々の主観的な「心意」・記憶を問うものであるが、それらを重ね合わせることによって共同主観的な現象を見出すことはできると考えた。研究対象を国内に限定することで研究の実験性が確保されるのであるという。

 たしかに柳田は山人について語るのをやめたが、それは山人論を放棄することではないと柄谷さんはいう。「山人論には2つの意味がある。第1に、それは先住民、異民族を意味する。第2に、それは、柳田が椎葉村に見たような遊動性・ユートピア性を意味する。山人論を放棄するという場合、通常は第1の意味で語られる。・・・/しかし、第2の意味では、柳田は山人論を放棄していない。絶えずそれを追求したのである」(116ページ)と主張する。この点と関連して柳田が「一国民俗学」を論じ始めた時期から、狼について論じ始めていることに着目している。

 柄谷さんは柳田が文化の地方的な多元性に否定的であったと論じていて、この点については実際に柳田の著作を読み返す必要があると思うが、多元的・一元的といっても、人間の社会に属することであるからどこで区分を設けて独立の事象と考えるかという問題も絡まっているように思う。このところ、プロップの『魔法昔話の起源』を読んでいて、プロップが魔法昔話の特徴として論じていることがあてはまる日本の昔話とそうでないものがあるような気がしている。日本列島の歴史の中で対外交渉が盛んであった時代とそうでない時代とがあり、徳川三百年と東アジア諸国の海禁政策がなかったら、柳田の「一国民俗学」の主張も根拠の乏しいものになっていた可能性もないわけではなかろう。
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