語学放浪記(23)

2月23日(日)晴れたり曇ったり、温暖

 柄谷行人『遊動論 柳田国男と山人』について書いてきて、いくつか気付いたことがある。一つは、柳田の「山人」論がハイネの『流刑の神々』に触発されたものであると柄谷さんは指摘しているが、柳田のこの書物についての理解がどの程度ハイネの真意をとらえているかも検討する必要があるということである。岩波文庫に入っている『流刑の物語』はハイネ一流の皮肉や諧謔が込められた書物だと記憶する(今、手元にあるので確言はできない)。柳田はおそらくドイツ語でこの書物を読んだのであろうが、そのような皮肉や諧謔をどの程度読みとったのかは分からないところがありはしないか。

 さらに、ハイネというと思いだすことがある。『サザエさん』の中で波平さんがフネさんとサザエさんを前に酔っ払っていい調子になって中学校で習ったという英語の歌を歌う。聞かされている2人はくすくす笑っていたのだが、歌を聞き終えて素晴らしかったという。波平さんがもう1曲歌おうかというので、「ローレライ」がいいですわというと、今、歌ったのがローレライだという落ちがつく。「ローレライ」はハイネの詩集『歌の本』に収められている詩である。問題はそれがもともとドイツ語で書かれたものだということである。旧制の中学校で英語の「ローレライ」を教えていたかどうかは定かではない。

 英語もドイツ語も外国語には違いないが、両者は違う言語である。外国語という範疇でいろいろな言語をひとくくりにしてしまうと個々の言語の違いが見えにくくなる。それぞれの言語を区別し、聞き分けるためにはそれぞれの言語を勉強する必要がある。現実問題として、自分が知らない言語を聞くと、それが英語だと思ってしまう人が少なくないようである。以前、スウェーデンの子ども向け映画を親子連れで見ている客がいて、子どもの方がこの映画のなかで話されているのは何語かと質問しているのに、父親が英語だと答えている場面に遭遇したことがある。中学・高校で英語を勉強していれば、英語ではないことくらいは分かりそうなものだと思ったが、どうもそうでもないらしい。あるいはわからないと答えては父親としての威厳が保てないと思ったのだろうか。

 もっとも最近では、街角でアジアの言語(たいていは中国語)を話す人々に出会うことが少なくなくなったから、何でも英語だと誤解する傾向は減少しただろうと思う。ただ、それが外国語を勉強しようという意欲を鼓舞しているのか、委縮させているのかは分からない。

 もう40年くらい前の話になるが、ある学校の校長と話していて、英語とドイツ語ができればヨーロッパの言語はほとんどわかるでしょうといわれたことがある(既に何度か書いてきたが、英語は多少はできるが、ドイツ語は全くできないのである)。ヨーロッパだけが世界ではないとはいうものの、その頃は、ヨーロッパの各地を旅行してまわるということはかなり稀少な体験だったから、インド=ヨーロッパ語族などという言葉に惑わされて、各言語がそれぞれ固有の発音の体系や語彙や文法をもっていることを私自身もなかなか実感できなかった。実感するには、それぞれの言語をかなりみっちりと勉強していく必要があったが、それほどの時間的な余裕はなかったのである。

 そうはいってもわたしが勉強した範囲でいえばスペイン語とイタリア語は似通ったところがあるというように、まったく違うとも言えないところはある。とはいうものの、そういう場合さらにしっかり勉強しないとどっちがどっちだかわからなくなって混乱するだけである。だから、よほど詳しい知識を持っていなければ、片方の知識はもう片方の足を引っ張るだけに終わる恐れがある。だから1つの言語を集中して徹底的に勉強することがその言語の習得のために必要なのだが、しかしそれだけでよいのかという疑問も残る。
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