柄谷行人『遊動論 柳田国男と山人』

2月20日(木)晴れ後曇り

 柄谷行人『遊動論 柳田国男と山人』(文春新書)を読み終える。昨年の10月~12月まで『文学界』に「遊動論――山人と柳田国男」として連載された論稿に新たに書き下ろした「付論」を加えて刊行されたものである。著者のこれまでの業績から、柳田の思想の批判的な継承が目指されていると想像できるが、どこを批判して、どこを継承しようとしているかが問題である。

 この書物は第1章「戦後の柳田国男」、第2章「山人」、第3章「実験の史学」、第4章「固有信仰」、それに付論「2種類の遊動性」から構成されている。

 第1章は「柳田は初期の段階で山人(やまびと)、漂泊民、被差別民などを論じていたが、後期にはそれから離れて彼が「常民」と呼ぶものを対象とするようになり、「一国民俗学」を唱えるようになった」(8ページ)と書き起こされている。このことが重視され、批判的に論じられるようになるのは1970~80年代にかけてのことであったという。戦後、まさに「一国的」であった日本の社会のなかで、「一国民俗学」の性格と可能性を批判する人はいなかった。しかし、日本企業の海外進出とともに日本人の自閉性が批判されるようになると、むしろ柳田の初期の業績の可能性の方が注目され、彼が「一国」に閉じこもったことが批判されるようになるのである。

 しかし柳田が一国民俗学を言いはじめたのは1930年代、満州事変以後の「五族協和」や「東亜新秩序」が唱えられ、それと呼応する形で比較民俗学や世界民俗学が提唱されたときに、それよりもまず一国内での民俗学を確立すべきであると主張することで、時代状況に抵抗する文脈でのことであった。しかし、この抵抗は、「それ以前に彼の企てが敗北してきた結果、やむなくとった形態であることを知っておくべき」(10ページ)であると柄谷さんはいう。朝日新聞論説委員として吉野作造とともに普通選挙を実現するために活発に論陣を張った彼は、しかしその結果実現した普通選挙の結果に民意が一向に反映されていないことに失望した。彼はこの問題を民俗学の方法によって解決しようとし、それを「実験の史学」と呼んだ。柳田は明治以来、一貫して、現実の政治にかかわってきたのである。しかしそれらはことごとく敗北に終わった。その敗北の原因を問うことが彼の民俗学の内実であった。

 とはいうものの1930年代以降になると柳田は現実の政治にかかわることができなくなる(現実にそうするための条件が失われる)。その一方で彼の民俗学はそれ以前よりも広い読者層を獲得するようになる。社会科学的なものが権力によって弾圧され、京都学派の「世界史の哲学」のような「観念的な歴史学」が支配的になったことに不満をもった人々が文学的な香りを帯び、実証的な調査に基づく柳田の民俗学の魅力にひかれるようになったと説明される。しかし、柳田自身がこの状況に満足していた訳ではない。現実の政治にかかわれなくなった事態を自身の無力さとして感じていた。「したがって、敗戦に際して、柳田は「一国民俗学」に満足するどころか、かつて企てながら果たせなかったことをあらためてなそうと待ち構えていた」(13ページ)。このとき、彼が取り組もうと考えていたのは、家族制度も含む農民問題であったと考えられる。

 柄谷さんは花田清輝の見解に着目しながら、「農村における前近代的な協同のあり方を否定的媒介にして」、新たな協同性を創造しようとしてきた柳田は、戦後改めてその可能性を試そうとしたが、米軍による農地改革によって阻まれた。その後の高度経済成長は結果として農村人口の減少と農業の保護政策をもたらした。柳田の構想は明治・大正時代と同じく、戦後にも挫折したのである。さらに柄谷さんは戦没者の祭祀の問題、沖縄の問題についての柳田の取り組みと敗北について論じている。その一方で1960年代以降の日本社会の変質に伴って柳田の読まれ方が変化したことを吉本隆明の『共同幻想論』を軸として論じ、農民=常民をベースにした柳田民俗学=史学が日本社会の現状と合わなくなった一方で、非常民への着目が顕著になったという。しかし、そのような人々に初めて着目した人物こそ柳田であった。そしてなぜ柳田が変わったかと問う場合に、その問いを自分自身にも振り向けるべきであると指摘する。実は日本社会の変化によって読者が柳田を見る目も変わってきたのではないか。柳田の歴史的変化と読者自身の歴史的変化とを交差させる、トランスクリティカルな視点から柳田の「山人」論を問い直すべきであると論じている。

 著者の論旨を要約するだけで(しかも後半になるとほとんど見出しだけを紹介する形になってしまったが)、疲れてきたが、柳田の根本的な関心の一つが農民の協同による農村の自立であったこと、民俗学がそのような共同の根拠を探る学問であったことなどをとりあえず理解しておこう。

 柳田が亡くなった1962年にわたしは高校生であったが、柳田が主唱して編纂された教科書がわたしの周辺にあったり、ラジオで柳田の話を聴いたり、学校の先生から柳田の話を聞いたのは小学校時代のことであったと思う(それ以後、柳田は高齢のために目立った活動ができなくなったのである)。さらに言えば父母の本棚にも柳田の『木綿以前のこと』などの著作があったことも思いだす。ただ、死んだ父は柳田を民間の学者、町の学者ととらえていたが、わたしが彼について抱くイメージは「文人としての顔も持つ高級官僚」である。この点は柄谷のとらえ方と一緒で、このことは彼が農政学者、官僚として農村の現実とかかわろうとした、そこから進んで日本社会の現実とかかわろうとして敗北したというこれまでの記述からも明らかであるが、第2章以降を紹介するなかでさらに明らかになると思う。 
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