パヴェーゼ『美しい夏』

2月15日(土)午前中、雪と風雨 午後、曇り

 2月13日、パヴェーゼ『美しい夏』(河島英昭訳、岩波文庫)を読む。大雪の予報が出ているときに『美しい夏』でもないだろうという人がいるかもしれないが、この作品で「美しい夏」という言葉は象徴的な意味をもって使われていることに気づくべきである。イタリアの青春映画の多くが夏をその季節として選んでいることも思い出されてよい。

 1940年ごろの北イタリア(ピエモンテ)のトリーノ市で兄とともにアパート暮らしをしながら、洋裁店で働いているジーニアという16歳の娘が、3歳ほど年上のアメーリアという女性と知り合い、彼女を通じてグイードという画家を目指す青年とであって次第に大人の世界に足を踏み入れていくというのが物語の大筋である。

 チェーザレ・パヴェーゼ(Cesare Pavese, 1908-50)は20世紀イタリアを代表する文学者の1人である。この小説はもう50年か、それよりも昔、まだ高校生だったころに読んだことがある。それを読み返そうと思ったのはイタリア語の勉強のために何かいい読みものはないかと思ってイタリア書房で探した限りで、『美しい夏』が長さも手ごろだし、一番読み易そうで、とりあえず翻訳からでも読んでみようと思ったからである。

 河島英昭さんの「解説」によれば、この作品は物語の結末を知っている<作者>とそれを知らない<登場人物>の間の均衡によって成立しており、男性である作者が物語のなかに結末を知るものとして登場せずに、その役割をアメーリアに担わせている。「『美しい夏』は始めから終りまで女言葉で書き抜かれている」(188ページ)。たぶん、このことが原文の字面を追った限りでの私の印象と重なるのだろうと思う。

 物語はジーニアが自分の閉ざされた生活を破って「美しい夏」を過ごしたいと思い、体験を重ねる(そのこと自体が「美しい夏」である)過程を描くが、それは少し前にアメーリアが通り抜けた過程であった。「丘の向こうにまで、行ければいいのに」(5ページ)と夢想していたジーニアが、物語のなかほどでアメーリアと2人、40ぐらいの片眼鏡の男の運転する自動車で丘に登る。「もうあの美しい緑の木々はなくて、霧と電線ばかりの虚ろな空間があった。丘の斜面は禿げたようになっていた」(125ページ)。終わり近くでジーニアは独白する。≪あたしは年をとったんだわ、それだけのことよ。美しい盛りは終わったのね≫」(174ページ)

 冒頭の「美しい夏」へのあこがれが美しく描き出されているだけに、物語の進行に連れて現実の社会を生きることの辛さや暗さが強く印象付けられる。パヴェーゼの筆致は飽くまでも柔らかだが、登場人物たちが暮らす部屋の闇や、彼らを包み込む寒気や霧をしっかりと描き込めている。

 50年ほど以前にこの小説を読んだ時、それが自分と同じ年代の異性を描いているということをほとんど意識せず、何となくジーニアが自分よりも年上であるような錯覚をもっていた。それだけ文学の読者として未熟だったということであろう。イタリアがファシストの支配下にあった時代に書かれ、戦後になって発表されることになったこの小説は恋愛を通じた女性の成長ではなくて、恋愛への憧れが成就しない女性の運命を描いて社会への間接的な批判を試みていると読みとれる。

 河島さんの翻訳は読みやすいが、「市電」という言葉が使われているのには違和感がある。現在の日本で運行している路面電車の大部分は私鉄の経営する路線である。「路面電車」とか「トラム」とか訳すべきであろう。
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はじめまして。

パヴェーゼはとても好きな作家のひとりです。
一時期よく読みました。
美しい夏・・・。また読み直したいです。
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