神野志隆光『古事記とはなにか 天皇の世界の物語』(3)

2月12日(水)曇り

 この書物の第1編「世界の物語としての神話」では、『古事記』には、今日の日本の原型である葦原中国という世界が高天原の神のもとに成立してきたかが記されているという議論が展開された。第2編「天皇の正当性の論理」では高天原から降った神の血統を受けた天皇が葦原中国の正当な支配者であるということが論じられる。

 第2編第1章「正統性を保障するアマテラス」はこの正統性をめぐる神話のなかでのアマテラスの役割を論じている。イザナミが死んだ後もイザナキは神々を成らせる。黄泉国から逃げ還った後に禊をしてまた神々が成る。その禊によって成った神の最後に、アマテラス・ツクヨミ・スサノヲのいわゆる三貴子が出現する。このなかでアマテラスとスサノヲはその名前に実質・実体を指す語を含んでいない。スサノヲは「荒れすさぶもの」、アマテラスは「至高性を負うもの」として対極をなすものであることが神名にあらわれていると著者は説く(異論はあるかもしれない)。この三貴子を得て大いに喜んだイザナキはそれぞれに高天原、夜の食国(をすくに)、海原を分治させる。ところで、それぞれが統治する世界から葦原中国は除かれている。これは未完成の状態にあるから統治者を定めないのであると論じられている。葦原中国の完成にはアマテラスとスサノヲの関与が必要とされるのである。

 この書物は読者が『古事記』を読んでいる、あるいは一定の知識を持っていることを前提として書かれているために、物語のあらすじなどひどく簡単に語られているが、アマテラスに対して異心がないことを示すためにスサノヲはアマテラスとの間でウケヒをする。スサノヲが勝ったことで調子にのって暴れまくるので、アマテラスがイハヤにこもる。神々が相談してアマテラスをイハトから引き出してふたたび支配者の地位につけ、スサノヲを追放する。彼は出雲に降りヤマタノヲロチを退治する。一連の物語のなかでウケヒによってアマテラスがオシホミミという男神を自分の子として得、それが天に属することになったことを著者は重視する。オシホミミの子がニニギであり、葦原中国の正統な支配者となるのである。ヤマタノヲロチ退治の物語はスサノヲの力の巨大さを物語るとともに、その血統をひく神が葦原中国を完成させることを示す。

 アマテラスはオシホミミこそ葦原中国を支配すべきだと考えて、大国主に国を譲らせようとする。オシホミミは葦原中国の様子が騒がしいといって戻ってくる。そこで神々が相談して使者の神を派遣するがうまくいかず、タケミカヅチが出かけることになる。大国主は自分の子の事代主が答えるでしょうと言い、その事代主は葦原中国を献上すると誓う。次に最初は反抗的であったが服属した次男のタケミナカタに事代主のことばに背かないことを誓わせ、改めて大国主にそれを確認させる。誓言を向けるようにさせることとしてのコトムケがなされたことにより、アマテラスの子孫である神が葦原中国を所有することが可能になる。こうしてオシホミミの子であるニニギが高天原から葦原中国に降ることになる。国譲り・降臨という一連の神話を通じてアマテラスの役割は正統性の根源となるということである。『日本書紀』においてはニニギが天から下るにあたってアマテラスは何の役割も演じないと著者は指摘している。「『古事記』においてのみ皇祖神アマテラスということができるのである」(187ページ)。ただし『古事記』においてもアマテラスがタカミムスヒに支えられ、導かれていることも見逃すことができないと著者は注記している。

 第2章「古代神話の多元性と『古事記』」は『古事記』と『日本書紀』(とその他の神話テキスト)の異質さの検討を通じて多元的な神話が、多元的にまとめられていく過程をたどろうとしている。『古事記』上巻は葦原中国が高天原と天の神々の意向を受けて形成され、その帰属を決定される過程を語る物語であり、世界としての関心の対象となっているのはあくまで葦原中国なのだと著者はいう。また天地の世界と神々の所属について柔軟に見ていく必要があると論じている点が注目される(柔軟というよりも、いい加減といった方がいいのかもしれない)。さらに「近年デュメジルの影響下で、神族としての天つ神・国つ神を祭祀・戦闘機能と生産機能との分担という点から論じる、吉田敦彦『日本神話の源流』、大林太良『日本神話の構造』のような論議があるが」(197ページ)、『古事記』における神々の実際の描かれ方に則して承服しがたい議論であると述べているのは、興味ある点でわたしなりにも吉田や大林の書物に目を通して論じてみたい。(そもそもデュメジルはインド=ヨーロッパ語族の世界のなかで3機能論を展開しているので、それが普遍的なものであると入っていないはずであるが・・・)

 これに対して『日本書紀』は陰陽二元論によって世界の物語を語ろうとしている。何よりも重要なのは『日本書紀』には高天原という天の世界がないことである。「高天原という天上世界をもつ『古事記』の神話的世界に対して、『日本書紀』には高天原がない。『日本書紀』は、高天原をもつことなく、自らの神話的物語の全体を成り立たせているのである」(204ページ)。「イザナミは死ぬことなく、どこまでも陽神イザナキ、陰神イザナミの相和するところで世界は生成される」((207ページ)。

 「『古事記』の神話的物語と、『日本書紀』のそれとは別個な神話としてみるべきだ」(213ページ)というのが著者の見解である。「『古事記』と『日本書紀』とは、2つのテキストによる2つの神話というべきである」(216ページ)とも論じられている。『古事記』はムスヒの働きによって世界の成り立ちを説明し、『日本書紀』は陰陽二元論に依拠することによって世界の物語を語った。『古事記』『日本書紀』が作成された時代は天皇の神格化が進められた時代であったが、それはさまざまなやり方でなされたのであって、一元的に理解されるべきではないというのである。

 理解しにくいところは適当に省いたりして紹介したので、分かりにくいかもしれないが、『古事記』と『日本書紀』は異質の神話を語っているというのが神野志さんの意見である。今回触れた個所には記紀とは別の神話テキストである『古語拾遺』についての言及も見られていることも付け加えておこう。
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