森鴎外とデモクラシー

1月30日(木)曇り後雨

 昨日の当ブログでも触れた辰野隆『忘れ得ぬ人々』のなかで多くの人物が取り上げられているが、森鴎外については特に論じた文章がない。しかし、漱石とその『明暗』について論じた一文のなかに、鴎外についての言及があって、これが見逃せない内容を持っている。

 『明暗』という小説は読んだことがないので、わたしなりの見解を述べることはできないが、辰野によれば、「個人主義の心理解剖」の極致というべき作品だそうである。「加之、『明暗』の帰結は則天去私の道徳に依つて個人主義が罰せらるる運びらしく思へる。然しながら、私を去って天に則くまでには、その間に、社会生活の現実が横はってゐるのに、漱石はそれに直面してはゐないのである。/飽くまで批判的な漱石に、自然主義の影響が現はれるまでには相当長い取捨選択の事実を要した」(57ページ)。漱石の時代の日本の社会思想はまだ成熟してはいなかったと断じて、もし漱石がさらに10年長く生きていたら、みごとな社会小説を書いていたのではないかと推論するのである。そして、辰野は鴎外についての思い出を語る。

 「それに就いて、思ひ出されるのは大正9年か10年ごろの鴎外である。或日僕は山田珠樹、鈴木信太郎と一緒に鴎外を上野の博物館に訪れたことがあつた。館長室に案内された3人は鴎外といろいろな談を交はしたが、その時館長の机の上には、数冊の仏蘭西書が重ねられてゐた。それが何れも社会学や社会主義に関するものだつた。話は当時、吉野作造教授を中心とした民本主義の方へ移つて行った。その自分の鴎外は北条霞亭を書いて、伝記物の方面に新しい鍬を入れてゐる最中であつたが、民本主義や社会主義の問題にも無関心ではなかつた。言葉そのままには覚えてゐないが、鴎外が徐ろに語つた意味は、はつきり覚えてゐる。
 『デモクラシイのデモは民衆で、クラットは力だらう。民主主義と訳しても、民本主義と訳しても差支えないやうなものの、デモクラシイの方はむしろ民衆に依つて、或は民衆の力を利用して、といつた臭ひがあるのだね。そこで、民本主義の方はどうかといふと、これは民衆の為に、己を空しくして民衆の為に、といふ味があるなあ。だから、民本主義は、実はデモクラシイと言ふよりも、デモフィリイと呼んだ方が穏やかなのだ。仏蘭西語で云へばpaur(に依つて)とpour(の為に)との相違になるのだらう。』と言つて鴎外は微笑した。その時僕は竊かに、この文豪は今は伝記物を書いてはゐるが、将来は社会小説にも相当の野心を持つてゐると察した。然るに鴎外ももまた漱石と等しく、本格的な社会小説には筆を染めずに逝ってしまつた。両大家とも、卓れた社会小説家たり得べくして竟にその業績を残さずに死んだのは、能はざるにあらず、いまだミリュウ[環境]の熟せざるものがあつたと解する他はなかつた。何れも、ロオマン・イデオロジック[思想小説]の大家であったが、それはあくまで心理解剖かとしてのイデオロオグであつたので、社会学的なイデオロオグには遂にならずに了つたのである」(58-9ページ)。[仮名遣いは原文のまま、字体は新字体に改めた。]

 ここで述べられている議論はかなり荒っぽいもので、政治的な関心と社会的な関心はそれぞれ独自の領域とも、不可分のものとも考えられるし、それを漱石と鴎外という巨人に即して考えていくのは相当な知的作業である。漱石は19世紀の英国における大衆的民主主義の発展が文学に及ぼした影響について考えるところが多かったし、鴎外も19世紀以後のヨーロッパの社会思想について詳しく研究していた。ともにイプセンを読んでいたというのもなかなか面白いところである。また辰野は社会小説が書かれる環境として社会問題への関心が社会科学的な研究に裏付けされた社会思想によって支えられるているような言論のあり方を想定しているようであるが、言論の自由の問題もある。漱石は教育の世界からジャーナリズム、鴎外は陸軍、その後は官界にいたから、そのあたりの空気には人一倍敏感だったはずである。

 辰野のこの思い出はたぶん、高校時代に読んだのだが、その後ずっと記憶の片隅に残っていた。鴎外には個人的に少なからぬ愛着があるのである。高校の2年生になったときに、それまでやっていた自然科学系の部活動をやめた。それで学校の図書室で過ごす時間が多くなり、その時によく読んだのが鴎外で、「渋江抽斎」、『伊澤蘭軒』、『北条霞亭』などを読んだ。文学というよりも、歴史的な事実にどのように気付き、どのように調べて、どのようにまとめるかということをめぐり多くのことを学んだような気がする。鴎外は津和野の出身なので、津和野国学の流れをくむ学問の方法が彼の根底にあったようである。漱石と鴎外の背景をなす教養として英国的なものとドイツ的なものという対比もあるだろうが、東洋思想のなかでどのような傾向に影響を受けているかという比較も興味深いものではないかと考えているところである。
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