佐藤弘夫『鎌倉仏教』(5)

1月24日(金)晴れ後曇り、予報ほどには気温が上昇しなかったがそれでも温暖

 法然や親鸞の専修念仏の主張は荘園領主である寺社の支配に抵抗する民衆によって自分たちの権利を主張するために、旧仏教の仏神を否定する論理として利用された。鎌倉仏教の祖師たちの思想の中に内包されていた革新性が民衆によって新しい意味をもつものとして再発見されたのである。

 第7章「熱原燃ゆ」は、専修念仏教団で起きていたのと同じような動きが日蓮の教団でも起きた経緯を語っている。鎌倉時代の建知年間(1275-78)に入ったころから日蓮宗の教線は駿河方面で急速に拡大していた。その布教活動の中心になっていたのが、六老僧と呼ばれる日蓮の高弟の一人、日興であった。

 1274年に流罪を許されて鎌倉に戻った日蓮であったが、彼の弾圧の当事者である幕府の実力者平頼綱によって示された妥協を拒否し、身延にこもって弟子の育成に力を注ぐことになる。彼に代わって布教活動に従事したのが六老僧であり、特に日興の活躍は目覚ましかった。日興は彼のもとに集まった僧俗に分け隔てなく日蓮自筆の本尊を分け与えたが、それは日蓮の平等主義を継承する行為であった。

 一つの仏、一つの行だけを肯定し他を否定する<選択>の考え方は法然や親鸞の教団では祖師の死後後退し、否定される傾向にあったのに対し、日蓮宗の場合はかたくなに守られ、それゆえに他宗派からの攻撃と権力からの弾圧をうけることになる。第7章では弾圧と民衆の抵抗の過程が詳しく語られている。

 第8章「文化史上の鎌倉仏教」は鎌倉時代に出現した新しい仏教の歴史的な地位について考察を加えている。古代の仏教は東大寺や興福寺の壮大な伽藍に代表される文化を出現させたが、仏の救済の手が一般の民衆にまで届くことはなかった。古代の律令体制が解体するにつれて、寺院は自らが荘園を経営し、民衆から喜捨を集める必要に迫られることになった。民衆との接触の拡大は、伝統仏教に庶民が受け入れることができる容易な行の創出を促すことになった。こうして民衆は上から与えられる救済の教義に接することができるようになったが、鎌倉仏教は民衆が主体的に信仰の担い手であるような教義を説いたのである。それはただ宗教の次元にとどまらず、民衆が支配と対決する際の思想的な武器を提供するものでもあった。

 15世紀に入ると農民たちの戦いはより広範囲の連帯を基盤とするものに成長し、また都市においては町衆による自治都市化が進められていた。このような民衆の力の増大を背景に、室町時代になると庶民が文化の担い手として広く台頭することになる。能の大成者である観阿弥・世阿弥は高い身分に属してはいなかったし、茶の湯も民衆への喫茶の習慣の普及を前提として成立したものであった。「惣の結成や町衆の台頭にみられる民衆の地位向上を背景として、民衆自身がみずからのための文化を生み出す主体となる時代が、ここにようやく到来したのである」(227ページ)。

 15世紀になってそれまで異端として厳しい弾圧をうけた親鸞や日蓮の宗教が急速に社会に浸透してゆく背景には、こうした社会や文化の変動があった。真宗は蓮如によって親鸞に見られた阿弥陀仏一仏至上主義と<選択>に基づく専修を復活させられる。農村と都市とで真宗(と日蓮宗)は民衆が主体的に選んだ宗教として彼らの自治の主柱となっていくのである。

 あとがき、参考文献の他に、文庫化に際して加筆された「鎌倉仏教論を読みなおす」という文章が末尾に加えられている。

 一読して(一読どころか何度か読み返したのだが)、熱気が感じられたが、その一面で独断的ではないかという疑いももった。民衆を価値の源泉とするところに著者の思想のありようが見えているが、議論をより具体的にしていく必要もあるのではないか。また古代仏教が民衆に届かなかったというが、行基や空海の活動は民衆を視野に入れたものではなかったのかと思う。前回、鎌倉仏教の普及が農村部だけを問題として論じられているのではないかと書いたが、最後の方になって町衆と新しい仏教の結びつきについて触れられていたので、少し得心した。
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