夫婦善哉

1月23日(木)晴れ

 神保町シアターで『ふたりぼっちの物語 「ふたり」が紡ぐ「ひとつ」の映画』の1編として上映された豊田四郎監督の1955年作品『夫婦善哉』を見た。引っ越しでしばらく映画を見に出かける余裕がなかったが、これからまた機会を見て数を稼いでいくつもりである。そういえば、昨年も最初に映画を見たのは神保町シアターにおいてであった。

 織田作之助の同名小説の映画化。老舗の大店惟康商店の跡取り息子柳吉は道楽者で芸者の蝶子と駆け落ちする。食道楽で微妙な美意識は備えているものの怠け者で優柔不断な柳吉を何とか一人前の男にしようと蝶子は走り回るが、父親から許されて店を継ぐ、あるいは財産を分けてもらう可能性はないまま、ずるずると時間が過ぎてゆく。店は大学出の婿養子が継ぐことになり、柳吉は財産分与どころか父親の葬儀にしかるべき地位を与えられさえもしない。

 映画の中で2人が経験する不運は自分のせいだと蝶子は繰り返していうが、客観的にみれば悪いのは柳吉の方でそのあたりの2人と2人を取り巻く世間の目に古い時代の因習が見て取れる。人間はだれしも自尊感情をもっているのだが、それぞれがそれぞれの自尊感情を正確に読みとれるわけではない。そのすれ違い、食い違いの悲喜劇もこの作品の深さを増している。柳吉が正妻との間に儲けた娘が女学校で英語を習っているというので、蝶子がカフェの客から耳学問で習い覚えた英語を使って見せるがわかってもらえないという場面など、このすれ違いの例である。

 ラスト・シーン近くに題名にもなっている夫婦善哉が取り上げられている他に、自由軒のライスカレーなど、大阪の食道楽の名所がいくつか登場する。柳吉は商売に向かないだけで、もし何か別の機会に恵まれていれば、その道で大成したかもしれないのだが、なまじ大店の若旦那に生まれついたために見果てぬ夢を追いかけることになる。ちょっとした才能の片りんを見てしまっただけに蝶子の方はそれなりに安定した人生の設計ができるはずなのに、ダメ男に身も心も捧げつくしてしまう。

 柳吉を演じる森繁久弥が蝶子を演じている淡島千景にいう「おばはん、頼りにしてまっせ」というセリフはあまりにも有名。この形でいわれるのはラスト・シーンだけだが、「おばはん」も「頼りにしてまっせ」も何度も繰り返し口に出される。はっきり口に出さないとわかってもらえないのだろうかという不安があるのだろうか。口にしている森繁はまだ若く、その相手の淡島千景はさらに若く、美しい。一から人生をやり直すつもりがあればまだ人生は長いはずなのだが、映画の終わり近く二人の姿には諦念が漂い始めているようにも見える。一方でまだ人生への野心を抱きつづけながら、他方で若隠居を強いられている身の上への自嘲がこのような表現を生むのであろう。蝶子の悩みを見抜いて(?)呼びとめたことがある占い師が、ラスト・シーンで2人を見送るのも計算された演出である(原作にはない設定である)。

 最近、織田作之助が書いた原作の続編が発見され、発表されているし、それとは無関係にこの作品の続編映画もつくられているが、これはこれで完成された作品としてみるべきではないのか。主人公たちの運命には不安が付きまとい、それが映画を見た後の観客の心に大きな余韻を残すが、それだけ完成度の高い作品であると考えて、そこで主人公たちと別れるべきではなかろうか。物語は1930年代の大阪が舞台になっており、映画がつくられたのは1950年代であるとはいえ、撮影当時はまだ残っていた建物やセットを利用したのであろうが、今では姿を変えてしまった大阪の市街地や商店の様子が克明に描かれていて、それだけでも意味がある。私がサラリーマンのまねごとを始めた1960年代の末の大阪の姿は、映画の中のもっと古い大阪の姿には重なるが、今の大阪の姿に重ならないように思えてならないのである。
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