佐藤弘夫『鎌倉仏教』(4)

1月22日(水)晴れ

 鎌倉仏教の特徴であり、魅力でもあるものは何か? それは「すべての人々に平等の救済を与えることこそが仏教の原点であるという確信」(133ページ)を貫き通すため、それぞれの立場から伝統的な教学の常識に挑戦し、それを変えようとする知的冒険をいとわなかった点に求められると佐藤さんは論じてきた。法然の場合でいえば称名念仏が唯一の救済の道であるという主張であり、その実践であった。これに対する旧仏教の側からの反撃もまた厳しいものであった。

 第5章「理想と現実のはざまで」は元久元年(1204年)に延暦寺が朝廷に対して専修念仏と禅宗の禁止を求めた文書の紹介から始まる。比叡山に起こった反念仏の火の手は、法然による弁明書の提出と門弟への誡告によって鎮静するかとおもわれたが、翌年になると興福寺の衆徒が「八宗同心の訴訟」の名のもとに、新たに念仏停止の要求書を朝廷に提出したことで再燃する。朝廷と興福寺の間で折衝が重ねられるうちに、法然門下の安楽と住蓮が催した別時念仏の法会に後鳥羽上皇のもとにいた女官たちが出かけ、そのまま外泊したことが明るみに出た。このことに激怒した上皇は安楽と住蓮を死刑に処するよう命じ、法然やその有力な門弟たちを諸国に配流する。

 安楽・住蓮と女官たちの間に上皇が疑ったような不適切な関係があったかどうかは不明である。この点で弾圧の原因を2人の過激で反倫理的な行動に帰する後世の伝記作家の記述にも疑問が投げかけられる。少なくとも親鸞はこれが無実の罪によるものであると考え、そのように記している。かりに2人が無実であったとすれば、正しい道を行くものになぜ迫害が続くのか。実際に法然の数多くの門弟が弾圧を恐れて去っていった。

 「私たちは鎌倉時代の旧仏教というと、すでに凋落と頽廃の極みにあった古代仏教の残骸というイメージをもちがちである。しかし、・・・そうしたイメージは正しくない。実際には古代以来の伝統を汲む延暦寺・興福寺・東大寺などの大寺院が、その社会的勢力においても宗教的権威においても全盛期を迎えるのは、鎌倉時代に入ってからのことであった。それらの伝統教団に比べればいかに民衆への布教が進んだといっても、法然の教団などはしょせん泡沫以外の何ものでもなかったのである」(144-5ページ)。このような力関係の中で、専修念仏の教団が社会的に安定した地位を確保するためには、伝統教団によってその存在を認知してもらうことが不可欠であった。しかし「念仏以外に救いの道はない」という基本的な原則は伝統教団との和解を妨げる決定的な障害となる。門弟たちは師の立てた原則を守るか、教団を守るための妥協に踏み切るかという2つの立場の選択を迫られることになる。

 法然没後、彼の教団は多数の小集団に分裂していったが、それらの中で最も有力な存在へと成長を遂げるのが法然の直弟子聖光房弁長を派祖とする鎮西派と呼ばれる教団であった。弁長は念仏が唯一の救済の道として仏に選ばれたという<選択>の主張を捨て、旧仏教側の主張を受け入れ、旧仏教との競合を回避して共存を目指そうとした。このような大勢順応を潔しとせずに、あくまで念仏こそが唯一至上の法であると主張しつづける人々もいた。親鸞はその代表的な人物であるが、彼の教団においてすら親鸞の死後には彼の意図とは反対の方向に教団の大勢は向かったのである。このような旧仏教との妥協は日蓮や道元の教団においても見られる。「こうして鎌倉時代の後半から、どの宗派でも例外なく、祖師の厳格で妥協を認めない宗風を事実上放棄して、思想面でも実際の行動においても、旧仏教や権力との秩序ある共存が模索された。その結果、これらの宗派は公武の権力者の間にその支持基盤を広げ、また在地の民衆の中にも教線は目覚ましい勢いで広がっていった。/しかしその代償として、それらの宗派において祖師にみられた理想主義や現実批判の精神が、次第に色あせていったことも否定はできない」(157ページ)。現実が理想を圧倒するという現実が見られるようになってきたのである。

 第6章「襤褸の旗」はこのような動きの中で飽くまでも祖師の教えを守ろうとする人々の動きを追っている。法然や親鸞の門徒にみられる神祇不拝や諸仏誹謗と呼ばれた現象がまず注目される。法然や親鸞にとって<選択>は専修念仏に帰依した人が自分の内面の信心を純化していくための論理であり、外に向けられるものではなかった。とはいうものの教団教学の主流が念仏を唯一の法であるという<選択>主義を放棄しているときに、仏神を誹謗するという一部門徒の動きは祖師の教えに忠実であろうとする動きとして受け取ることができるのではないかと佐藤さんは論じている。

 封建領主としての大寺院・神社はその所領が本尊や祭神が支配する不可侵の「仏地」「仏土」であると主張したが、それは競合者に対して向けられた主張であっただけでなく、領内の農民たちを支配するための主張でもあった。荘園制支配が宗教のベールをまとうものであった一方で、それに対する抵抗も宗教的な形をとった。「中世では仏神を表に立てて支配を貫こうとする領主権力に対し、それに対する反抗もまた仏神に対する反逆という形態をとることになった」(170ページ)。「仏神の権威を押したてて支配を強化しようとする領主側に対し、その仏神の権威を利用し逆手にとって自分たちの立場を有利にしようとするのが、中世成立期の農民闘争のもっともポピュラーな形であった」(175ページ)。

 とはいうものの「民衆が自らの権利に目覚めそれをさらに拡大していこうとすれば、いつかは体制の壁に突きあたり、それを克服すべく荘園守護の仏神と対決する事態が到来することは目に見えていた。その時、仏神の存在そのものを否定できない中世の民衆が、宗教的権威を楯にして支配を貫こうとする荘園領主に対抗するためには、既存の仏神に代わる新たな精神的なシンボルが不可欠であった」(177ページ)。

 このような民衆の要請にこたえたのが専修念仏であり、この主張と実践を受け入れた人々にとってもはや荘園守護の仏神は宗教的な権威を失ってしまう。法然や親鸞は仏神誹謗を戒めていたが、彼らの専修念仏の主張から仏神否定という一点のみを取り出し、それを自分たちの思想的な武器としていった民衆たちの自主性と主体性とを評価すべきではないかと佐藤さんは論じる。「祖師さえも意識しなかった、その思想に内包されていた革新性を真に理解し、自らの生き方の指針としたのは、既成教団や権力との妥協にのみ心を砕いたプロの僧侶ではなかった。むしろ失うものをもたない名もなき民衆たちだったのである」(183ページ)。

 佐藤さんは中世の説話文学なども援用しながら鎌倉時代の荘園の現実という社会的な事情から宗教の動きを説明していこうとする。それはそれとして説得力のある議論ではあるが、この時代、都市と商工業が発達しはじめていることも視野に入れるべきではないか、それは宗教にどのように反映されているのかも興味あるところである。
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