佐藤弘夫『鎌倉仏教』(3)

1月19日(日)晴れ

 「鎌倉新仏教」は民衆を救済対象の主客に据えた点に歴史的な意義があるとする議論が有力であるが、そうした説は再検討の余地があると佐藤さんは論じる。旧仏教でも民衆の救済は視野に入れられていたが、それはあくまで現世的なタテの社会関係の延長上にあるものであり、民衆の救済を下位に置くことによって現実の社会秩序を肯定する性格をもっていた。「法然や親鸞はそうした旧仏教の理念の背後に潜む欺瞞を鋭く見抜き、念仏一行以外のすべての教行を否定することによって救済行の一元化を達成した。その結果、その宗教においてはあらゆる人が身分や地位や権勢に関わりなく、仏や法といった普遍的価値の下に平等に位置づけられることになったのである」(109ページ)という。

 法然や親鸞の宗教の意義は念仏による万人の往生を説いて民衆に救済の門戸を開いたことにあるのではなく、念仏を末法に唯一残された救いの道とする一方で、それ以外の救済のあり方をはっきりと否定していった点にこそ彼らの宗教の独自性があったと佐藤さんは論じる。それはある意味できわめて偏狭で独善的な論理であったともいう。法然や親鸞に見られるような、阿弥陀仏と念仏といった一つの仏・一つの行だけに価値を認め他を否定する論理を、佐藤さんは<選択(せんちゃく)の論理>と呼ぶ。

 仏教において仏は人間が悟ってそうなるべき目標であり、生身の人間を離れては存在しえないものである。とはいうものの人間と仏の間には、宗派によってその距離の取り方にさまざまな相違があった。インドから中国・日本へと東へ仏教が伝わるにつれて、仏と人間との距離は次第に狭まる傾向にあり、主として天台宗において仏と人間という仏教における聖俗二極の概念を一元的にとらえる本覚思想と呼ばれる考え方が発達してきた。

 平安後期の仏教界では森羅万象の中に数多くの仏神の存在を認める多神教的な性格が強く、宗教的能力と縁とに応じて仏の自由な選択を認める議論が支配的であった。こうした考え方に対し、法然や親鸞は全く正反対の立場をとった。彼らによって仏教が一神教に接近することになったといえる。一つの法、一つの修行の<選択>とその結果としての一神教的信仰の確立といった現象は法然・親鸞ら浄土信仰に連なる人々の独占ではなかった。全く異質な系譜に属する日蓮にも見られるものである。

 法然が浄土三部経を尊重したのに対し、日蓮は『法華経』こそが釈迦の真意をもっともよく説き示していると信じた。この点では彼は天台宗の伝統を踏まえているが、『法華経』以前に解かれた諸経典を仮の教えとして否定したところにあった。日蓮は法然・親鸞とは別の道を通って一神教的な宗教に到達したのである。

 彼らが次に行った作業は、これらの仏の前では現世的な存在と価値がいかにはかなく無価値であるかを強調することであった。親鸞は自分たちを弾圧した後鳥羽上皇が失脚したことを仏罰と見ていた。日蓮も源平の内乱で死亡した安徳天皇や承久の変で敗れた後鳥羽・順徳院、さらには執権北条時頼までもが地獄に堕ちたと公言したのである。彼らは仏の前における万人の平等を考えたのである。

 禅宗においては仏法を王法に優先させるという考えはなく、両者の相互依存を説くことが一般的であったが、道元の場合には王法を仏法に優先させる考え方が見られる。

 このように「新仏教」の担い手たちは一仏に対する一行の専修を主張するとともに、他の一切の仏神の教行の価値をはっきりと否定した。佐藤さんはこの点にこそ彼らの宗教の革命的な意義があると論じ、さらに旧仏教の側からの彼らに対する批判が「素直にいって少しも面白くないのである」(131ページ)と言い切る。

 第4章「仏法と王法」を要約すると以上のようなことになるだろうか。鎌倉時代は鎌倉に政治の中心があった時代というよりも京都と鎌倉に2つの中心があった時代と考えられる。その一方で仏法と王法はもう一つの対立軸であった。佐藤さんは新仏教の平等主義的な傾向を肯定的に評価しているが、それは他の教行に対する排他的な姿勢と結びつくものであった。この点については価値が多元化している今日の目から見て別の評価がなされてもよいのではないか。旧仏教の学僧たちの著書が「面白くない」という意見は主観的に過ぎる。第5章~第8章を読んで行く中でこれらの点を中心に「鎌倉新仏教」をめぐる問題をさらに考えていきたいと考えている。
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