佐藤弘夫『鎌倉仏教』

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 佐藤弘夫『鎌倉仏教』(ちくま学芸文庫)を読み終える。1994年に第三文明社よりレグルス文庫の1冊として刊行されている。ちくま学芸文庫に収められる際に著者によってこの書物の末尾に付け加えられた「補論 鎌倉仏教論を読みなおす――文庫化に寄せて」の終わり近くに次のように書かれている個所が印象に残る:「それでも私は、思想にはそれぞれの時代において果たした固有の役割があり、それに対する評価こそが歴史に携わる者のもっとも重要な使命であると信じている。そして、私にとってその評価の基準とは、ある時代に生きた人々の胸に、実際に希望の灯を灯すことができたかどうかという一点なのである」(262ページ)。ただ「希望の灯を灯す」だけでよいのかという気がしないでもないが、思想はそれが多くの人々の生き方の基準となり、目標を与えるものとなって初めて意味を持つという考えには同感である。鎌倉仏教は現代の我々の生活にもある程度の影響を及ぼしており、その思想史的な意義を知ることはわれわれが自分自身について知るためにも有益であると考えられる。

 この書物は鎌倉時代に新たに勢いをもった仏教の中の動きがその時代に生きた人々にとってどのような意味をもっていたか、言いだした宗教家自身、その周辺にいた人々、宮廷や幕府などの人々、既成の宗教界の人々、都市の人々、農村の人々のそれぞれに注目しながら掘り下げている。「思想は実践の中で鍛えみがかれて、はじめて生命を吹きこまれるのである。鎌倉仏教の祖師たちもまた、日々の民衆との接触の中で、一歩一歩その思想を彫琢していったのである」(13ページ)と著者は述べる。「鎌倉仏教の祖師の仏教を、教理としてではなく生きた宗教として捉えようとした」(同上)ともいう。これがこの書物の出発点である。

 第1章「法然の旅」は法然の歩みをたどる。国衙と荘園領主の対立という大きな歴史の動きの一こまである地方武士の間の紛争の中で父を失った法然は父の遺言に従って出家し、その非凡な資質を見抜いた師僧によって比叡山延暦寺に送られる。比叡山は日本仏教界の棟梁と目されただけでなく、12世紀になると「広大な治外法権の所領と強大な軍事力を所有する一大権門へと変身をとげ」(28ページ)ていた。その一方で比叡山は多くのすぐれた学僧を擁し、仏教教学研究の中心地でもあった。

 歴史書『扶桑略記』の著者として知られる皇円に師事した法然は天台教学を学ぶが、18歳で彼のもとを去り、25年間の長きにわたり西塔黒谷にこもって隠遁の生活を送る。当時の世俗化した寺院が本来の仏教から離れていると考えた一部の僧侶たちの間には、より閑静な山奥にこもって修学に専念しようとする風潮が広がりはじめていた。いわば「二重出家」であり、「遁世」とも呼ばれる。法然がこもった黒谷には天台浄土教の大成者であった源信以来の浄土信仰が根付いていた。平安時代の浄土信仰では観想念仏が念仏の主流であり、称名念仏はそれに比べればより低級で不確実な行とみなされていた。法然はそうした伝統的な称名念仏の位置づけに疑問をもち、誰にでも実践可能な称名念仏だけで、必ず極楽へ行けるという確かな証拠はないかと模索を始める。

 法然は『往生要集』の中に中国の唐の時代の僧、善導の『往生礼賛偈』からの引用の中の「念々に相続して」という言葉を「称名念仏を続けて」と読んだ法然は、ここに問題を解く手がかりがあると信じて善導の書物を読みふけり、念仏こそが仏が人間をすくうために用意したただ一つの道であると確信するに至る。それは一番やさしい方法であるがゆえに、仏によって選ばれたのであると考えた。こうして得た確信を実践に移すべく法然は比叡山を出て西山の広谷に移り、やがて東山の大谷に居を構えた。法然43歳の時のことであった。

 8章と補足からなるこの書物の1章だけをやっと紹介したことになる。以下の章については後日また紹介していきたい。1章では法然の歩みを、彼以前の日本の仏教のあり方を視野に入れながら描いたのであるが、次章以下では、法然の思想を受け入れたのは誰か、それがどのような社会的な意味をもったのか、さらに鎌倉仏教の他の祖師たちとその周辺についても同様の考察が展開されることになる。
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