那蘭陀寺と雷音寺の間

1月12日(日)晴れ

 むかし、京都に那蘭陀寺という寺があった。

 『徒然草』第179段に、入宋した道眼上人が一切経を持ち帰り、六波羅の辺りに那蘭陀寺という寺を創建したという話が語られている。道眼上人はここで大仏頂如来密因修証了義万行首楞厳経(首楞厳経)を講じた。首楞厳経の別名を中印度那蘭陀大道場経であったことにちなんで、寺の名をこのように名付けたという。ただし、この寺について触れている文献は『徒然草』だけだという話で、この段と第238段の2か所に登場するという。

 中インドのマガダ国の王舎城にあったナーランダ寺院はインド仏教の中心地で、玄奘がここで学んだことでも知られている。玄奘の西域・インド旅行は唐の初めの頃のことであったが、彼の事跡は特に日本ではその後長く敬慕の対象となった。『大唐西域記』が広く読まれ、多くの説話集の種本となり、『玄奘三蔵絵』という絵巻物が描かれたり、インドの地図である『五天竺図』に彼の旅行の道のりが描き込まれたりしたのはその何よりの証拠である。

 第179段では、商人が那蘭陀寺は大門が北向きだという大江匡房の説を、実際にインドのナーランダ寺院を訪問した玄奘や法顕の書き残したものに照らしたことを述べている。匡房の説は『十訓抄』などに見える由であるが、当時の権力者であった関白頼通が宇治の平等院を建てる際に、門を北側に建てざるを得ず、このことが妥当であるかどうかとの質問に応えたものだそうである。匡房は、インドでは那蘭陀寺、中国では玄奘がインドから戻って建てた西明寺、日本では六波羅蜜寺が北向きの門をもっておりますと答えたという。したがって上人の発言は直接的には玄奘の事跡に対する敬意を表明するものではないが、『西域記』が言及されていて、日本では玄奘の旅行そのものへの関心が衰えなかったことが示されているように思われる。寺の門を南向きにすべきか、北向きにすべきかという議論が取り上げられているものの、兼好は自分の意見を述べていない。六波羅蜜寺は何度か訪問したことがあり、現在では門は東側にあるのではないかと記憶するのだが、どなたかご教示ください。とはいえ私としては、寺の門の向きなどはどうでもいいが、昔、京都に那蘭陀寺という寺があったという事実そのものに興味がわく。一方、中国では宋の時代といえば、『西遊記』の原型の一つである『大唐三蔵取経詩話』が書かれたことに示されるように、玄奘の事跡がさまざまな創造によって変形し、膨らまされて、次第に物語化への道を歩んでいたのである。

 『西遊記』で三蔵たちの一行が目指すのは、天竺国霊鷲山雷音寺であって、那蘭陀寺ではない。実在した那蘭陀寺に代わって現実を超越した聖地の寺である雷音寺が設定されている。霊鷲山は中印度に実在する山であるが、釈尊が『法華経』などを講じた場所として知られ、仏教の聖地の一つである。天台大師智顗が南岳大師慧思に初めて会った際に、よく来られた、そなたとこの前にあったのは、釈尊が霊鷲山で法華経を講じられたときであったなと話しかけたのは仏教の世界では有名な説話である。京都にもこの山に形が似ているということから、霊山と名づけられた山がある。とはいうものの、インドに出かけて霊鷲山を見て帰って来た人は近代にいたるまでいなかったはずである。現在はインドに出かけて仏跡をめぐる旅行が盛んになっていて、霊鷲山もそのコースの中に含まれているはずだから、実際に見た人は少なくないはずであるが、もはや山の形が似ているかどうかは問題にならないくらいに既成事実化してしまったようである。

 日本の古典的な文献のなかには玄奘三蔵をめぐる、ひょっとすると『西遊記』の成立史と関連するかもしれない説話が豊富に含まれているのではないかと思われる。そういう説話を見つけていくこともおもしろいのではないかと考えているところである。
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