ウィルキー・コリンズ『月長石』(22)

1月10日(金)晴れ、ひどく寒かった

 悪名高い軍人であったハーンカスル大佐によってインドから英国に持ち込まれた巨大な黄色いダイヤモンド=月長石はもともとインドの神殿の月神の像を飾る宝石であり、その行方は3人のバラモン僧によって世代を超えて見守り続けられ、元の場所に戻されようとしてきた。大佐の遺言によって宝石は彼の姪であるレイチェル・ヴェリンダーの18歳の誕生日の贈り物として、彼女の従兄であり求婚者でもあるフランクリンによって届けられたが、誕生祝いの席で彼女の身を飾った翌朝に行方不明となった。

 地元の警察によって解明されなかった事件は、ロンドンからやってきたカッフ部長刑事の手に委ねられるが、彼もレイチェルの沈黙によって事件の真相に迫ることができない。誕生祝いの席に現れた3人のインド人手品師たち、邸の下働きの女中で前科のあるロザンナ・スピアマン、そして事件をきっかけに挙動が一変したレイチェル自身に嫌疑がかかるが、どれも決定的な証拠を見つけることができない。

 事件の後、怪しげな金貸しであるルーカーと、レイチェルのもう1人の従兄で求婚者であるゴドフリー・エーブルホワイトがロンドンでインド人から襲撃を受けるという事件が起き、ゴドフリーが月長石をもっているのではないかとの世間の噂が起きるが、ほかならぬレイチェルが彼の無実の証拠をもっていると口を開く。彼女は事件の後ロンドンのタウンハウスで心身を休めていたのである。ゴドフリーは彼女に求婚し、承諾を得るが、その直後にレイチェルの母であるヴェリンダー卿夫人が急死する。ゴドフリーの父がレイチェルの後見人となり、2人の結婚も間近と思われるが、レイチェルは(どうやら一家の顧問弁護士であるブラッフの入れ知恵により)婚約を破棄する。

 これまでの経緯は、ヴェリンダー家の執事であるベタレッジと、レイチェルの従姉であるクラックの口から語られてきたが、今度はブラッフが事件の証言者となる。ところで創元推理文庫の中村能三の訳では「クレイズ・イン・スクエアの弁護士マシュウ・ブラッフの寄稿」となっているこの部分は、Penguin Popular Classics版では”Contributed by Matthew Bruff, Solicitor, of Gray's Inn Squareとある。「クレイズ・イン・スクエア」という地名はなく、「グレイズ・イン・スクエア」は実在することからも、後者が正しく、翻訳者がなぜか間違えたように思われるが、そう考えると奇妙なことがある。既に何度か述べたように、イングランドの司法制度の中で、barrister(法廷弁護士)とsolicitor(事務弁護士)は区別される。グレイズ・インというのはロンドンの4法曹学院(Inns of Court)の1つで、法廷弁護士や裁判官はこの法曹学院のどれかの会員であることを求められているが、ブラッフは事務弁護士なのでここに事務所をもっているとは考えにくい。登場人物のなかではゴドフリーが、またこの作品の作者であるコリンズ自身が法廷弁護士の資格をもっていたということを考えると、どうもこのあたりの設定は奇妙である。

 ブラッフはこれも既に述べたようにレイチェルにゴドフリーとの婚約を破棄するよう助言した当の本人であり、その事情について語る。また彼自身が気づかないうちに月長石の事件に巻き込まれることになった経緯も語る。

 レイチェルの父であるジョン・ヴェリンダー卿は生前、ブラッフの度重なる勧めにもかかわらず遺言状を作成せず、結局妻であるヴェリンダー卿夫人にすべてを一任する形で世を去った。そこでヴェリンダー卿夫人は自分自身の遺言状を作成して財産の相続について決めた。その後、月長石の事件が起きて娘とともにロンドンにやってきた彼女は余命が短いことを知らされて遺言を修正したが、それは根本的なものではなかったとブラッフはいう。娘の性格を心配したヴェリンダー卿夫人はレイチェルが終身財産権しか受け継がないように定めた。「母親の良識と私の長い経験によって、レイチェルを一切の責任から解放し、将来だれかすかんぴんで破廉恥な男の犠牲になる危険から守ったのである。彼女もその夫も結婚した場合ともに不動産からも動産からも、鐚一文たりと得ることはできない。二人はロンドンとヨークシャの邸を持ち、かなりの収入を得る――ただそれだけであった」(447ページ)。

 ヴェリンダー卿夫人の死後、遺書が「検認」を受けて3週間ほどたって、ブラッフはただならぬ情報を得る。ヴェリンダー卿夫人の遺言状が既に閲覧の請求を受けているというのである。当時のイングランドではすべての遺言状はDoctors' Commons (中村訳では「民法博士会館」と訳されている。『リーダーズ英和』でも同様に訳され、1857年まで遺言検証・結婚許可・離婚事務などを扱っていたという)で1シリングの手数料を払えば閲覧できた。ヴェリンダー卿夫人の遺言状はまだ原簿に書きうつされていなかったので、もともとの文書そのものが閲覧されたという。閲覧した人物の属する法律事務所はブラッフの影響力の及ぶ範囲であったので、彼がだれの依頼で閲覧したかをブラッフはつきとめることができた。それはゴドフリー・エーブルホワイトであった。

 慈善事業のために寄付を求める弁舌家として知られるゴドフリーであるが、ブラッフは彼を口先だけの人間だとしてよく思っていなかった。彼が遺言状を調べてから1週間もたたないうちにレイチェルに求婚したという噂を聞いてブラッフは思案する。レイチェルはヴェリンダー家の膨大な財産に手をつけることができない。ゴドフリーが裕福であれば、レイチェルの収入だけでも結婚する価値はある。しかし彼が切羽詰まった状態にあるとすれば、ヴェリンダー卿夫人の遺言状がものを言って、財産はゴドフリーの手にわたることはない。母親を失った直後のレイチェルに真相を暴露することはためらわれるが、彼女の意向を確かめる必要を感じたブラッフはブライトンに向かうレイチェルに同行する機会に恵まれ、この機会を利用する。そしてレイチェルがゴドフリーとの結婚に希望を抱いていないこと、逆にゴドフリーは希望を抱いているらしいことを知る。ブラッフからゴドフリーが遺言状の内容を調べた次第を聞いたレイチェルは彼との婚約を破棄する決心をする。その一方で月長石の一件でレイチェルの心が傷ついたままであることをブラッフは知るのである。

 月長石の紛失を境に、レイチェルがフランクリンに対する態度を一変させたこと、この事件についてほとんど証言を拒んできたことが彼女への疑惑を生んできたのだが、その彼女がゴドフリーをめぐって湧き上がってきた疑惑を否定してきたのには何か理由があるはずである。しかし、ゴドフリーにも何か秘密がありそうである。レイチェルの愛を失って、海外へと旅立ったフランクリンはもう戻らないのか? その前に月長石をめぐってブラッフが語るべきことはまだいくつかあるようである。 
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