ウィルキー・コリンズ『月長石』(21)

1月3日(金)晴れ

 昨日、高橋哲雄『ミステリーの社会学』(中公新書、1989)を読み終えた。今更ながらという感じであるが、この書物が発行された当時は仕事に追われて推理小説どころではなかったことを考えると、多少は推理小説を読みためた後に読んだことで、より深く理解できるとも思う。その一方でその後の社会情勢とミステリー界の変化(たとえば、この本では推理小説がない国と断定されていたドイツでもミステリーが盛んになってきている)がとらえられていないことはやむを得ないところであろう。著者はコリンズと『月長石』にもかなりの言及を行っており、教えられるところが少なくない。

 さて、『月長石』という長編小説について、ようやくその半分くらいのところまで紹介してきた。とにかくこれまでのあらすじを紹介するだけで2~3段落は必要になるところまで進んできたが、我慢してお付き合い願いたい。インドの財宝<月長石>と呼ばれる黄色い巨大なダイヤモンドはある謎めいた経緯によって(暴力によるものだと噂される)英国の軍人ハーンカスル大佐の手に入り、英国に持ち込まれる。彼はさまざまな悪評のため一族から除け者にされて、その生涯を終えるが、自分の妹のヴェリンダー卿夫人の娘であるレイチェルにダイヤモンドを贈ろうとする。実はこのダイヤモンドには呪いが掛けられているという伝説があり、宝石を世代を超えて見守ってきた3人のバラモンたちの影が見え隠れしているのである。

 ヴェリンダー卿夫人は一族の中でもっともハーンカスル大佐を嫌っていた人物であった。宝石は彼女の姉の息子であるフランクリン・ブレークの手でヨークシャーのヴェリンダー家の邸宅に運ばれ、レイチェルの誕生祝いの席で披露されるが、その翌日、レイチェルの居室から姿を消していた。犯人だとして拘留された3人のインド人たちは無実であると分かり、疑いは邸の中に居合わせた人々に向けられる。フランクリンがロンドンから呼んだ犯罪捜査の名人カッフ巡査部長は、前科のある使用人であるロザンナ・スピアマンに疑いの目を向け、かつ事件後のレイチェルの証言の拒否にも厳しい態度をとるが、事件の解明には至らない。そしてロザンナは自殺し、謎を残したまま、カッフも去る。フランクリンは事件のあとレイチェルの自分に対する態度が変わったことに失望して海外に旅行に出かける。

 事件のしばらくのちに、レイチェルのもう1人の従兄であり、慈善運動家として知られるゴドフリー・エーブルホワイトがロンドンで、悪いうわさの絶えない金貸しのルーカーとともにインド人らしい謎の人物に襲われるという事件が起きる。このため、月長石を盗んだのはゴドフリーではないかといううわさが広まるが、事件の衝撃を和らげるためにロンドンで静養中のレイチェルはこのうわさを否定する。ゴドフリーとレイチェルの間が親密になり、ゴドフリーはレイチェルに求婚し、承諾を得るが、しばらくは母であるヴェリンダー卿夫人に内密にしておこうといい交わす。ところがその直後にヴェリンダー卿夫人が急死する。

 前回にも書いたのだが、この作品に登場する人物の中で人間的にバランスがとれていて賢明であるという点でヴェリンダー卿夫人に勝る人物はいない。彼女はロンドンで自分の死期が近いことを知らされ、姪のクラックを立会人に選んで遺言書を作成する(その内容はいずれ明らかになる)。中村能三訳では夫人となっているところを今回わざわざ卿夫人と書いたのは、この作品では<階級>が物語の中でのポイントになっていると思うからである。「卿夫人」というのはLadyに対応し、女性の侯・伯・子・男爵、Lord(侯・伯・子・男爵)とSir(baronetとnight)の夫人および、公・侯・伯爵の令嬢につける称号である。今は亡きヴェリンダー卿はSir Verinderと呼ばれているから、おそらくはbaronetであろう。

 ヴェリンダー卿夫人の死後、レイチェルは未成年であるので、後見人が必要となり、ヴェリンダー卿夫人の次姉のカロラインの夫であるエーブルホワイト(ゴドフリーの父)が選ばれる。ロンドンの邸(タウン・ハウス)は母親の死の思い出が、ヨークシャーの邸(カントリー・ハウス)は月長石の思い出が付きまとって住まう気持ちになれず、エーブルホワイト氏の邸は他の家族に気を遣うので好ましくなく、ということからブライトンに貸し家を借りてレイチェルはカロライン、その病身の娘と同居し、ゴドフリーがロンドンとブライトンを往復することになる。ヴェリンダー卿夫人がなくなったため、レイチェルとゴドフリーの婚約は一族の周知の事実となる。

 ヴェリンダー卿夫人の葬儀がヨークシャーで行われるが、クラックは叔母の死の数日後にその衝撃から立ち直って葬儀に参加することは自分の信仰上からも出来ないことであったと述べる。それに葬儀を司式するのはクラックの目から見ると腐敗堕落した教区牧師(Rector)であった。中村訳によると「前にわたくしは、その神に見放された聖職者が、ヴェリンダー夫人のトランプ台に向かって祈祷していたのを目撃していたことがありましたので」(400ページ)となっており、これは意味が通じないので原文にあたってみるとHaving myself in past times seen this clerical castaway making one of the players at Lady Verinder's myself in past times seen this clerical castaway making one of the players at Lady Verinder's whist-table(Penguin Popular Classics, p.243)となっていて、訳しにくい文章だが、「以前に私はこの聖職者の屑がヴェリンダー卿夫人のホイストのテーブルを囲む仲間の一人となっていたのを見たことがあり」くらいが妥当ではないか。教区牧師が地主の奥方とホイストをするのは、この時代としては不思議なことではなかっただろう。とにかくトランプ・ゲームの一種であるホイストを聖職者がたしなむのはけしからんというのがクラックの意見である。(ホイストというゲームは今ではブリッジにとって代わられてしまったが、昔は盛んであったらしい。ホームズの「赤毛同盟」にも週末には必ずホイストをするという銀行家が登場している。)
 
 カロラインは自分でものを決めることができない性質で、召使の人選などをクラックに一任する。「熱心な」キリスト教とのクラックは自分の意向にそった人選を進め、カロラインやレイチェルを自分の望む信仰の道に導こうと用意する。ところが、ブライトンで待っていると、一向につきそってきたのはゴドフリーではなくて、ヴェリンダー家の顧問弁護士であるブラッフであった。彼はヴェリンダー卿夫人の遺言書の作成の際に月長石をめぐりクラックと議論したことがある人物である。「この老俗物が何やら魂胆あってブライトンへきたのだなと、わたくしは納得しました」(407ページ)。ただやってきたというだけでなく、彼はそのまま夜まで居座ってやっと引き上げた。翌日、クラックはレイチェルを自分の信仰する教会に連れてゆくが、レイチェルは頭が痛くなっただけだという。帰宅すると昼食の席にブラッフが座っており、頭痛で何も食べたくないというレイチェルを散歩に連れ出す。帰って来た時、ブラッフはレイチェルに「決心ははっきり決まっておりますな?」と尋ね、レイチェルの決心を確かめてブライトンを去ってゆく。クラックはレイチェルに2人で何を話したのかを尋ね、彼女の機嫌を損ねる。尚も強引に会話を進め、彼女がゴドフリーとの結婚を取りやめると決心したことを知る。クラックはこのことがレイチェルを苦境に導くのではないかと予測し、それは彼女を自分と同じ信仰に導く機会となるかもしれないとも考える。

 翌朝、外出から戻ったクラックはレイチェルを訪問してきたゴドフリーに出逢う。ゴドフリーはレイチェルにあったこと、彼女から婚約の破棄を告げられたことを予測に反し平然とした態度で告げる。レイチェルには他に意中の人がいて、その人を忘れようと思ったためにいったんは婚約を承諾したのだという。クラックはゴドフリーを慰め、また慈善事業に戻るように勧める。ゴドフリーがこのような行動をとったのには、他人に隠している内密の事情があったからだという噂、さらに慈善事業に戻ろうとしたのは団体のある婦人委員と仲直りするためであったという噂があることを記したうえで、クラックはそれを否定する。

 クラックは婚約破棄がゴドフリーの父親であるエーブルホワイト氏の機嫌を損ねることになるだろうと予測する。そのエーブルホワイト氏がブライトンにやってくるが、同じころ合いにブラッフも到着する。エーブルホワイト氏に向かってレイチェルははっきりとゴドフリーとの婚約を破棄したと述べる。お互いにお互いを自由にし、もっとよい相手を見つける機会を与えあうべきだという。エーブルホワイト氏はハーンカスル一族(おそらくは貴族である)の誇りが銀行家(中流階級である)を見下しているのかと問い詰める(英国的な階級観が顔を出している)。クラックは議論の中で信仰問題をもちだして全員から邪魔者扱いをされる。エーブルホワイト氏に代わる新しい後見人を選ぶことになり、それまでレイチェルはブラッフの家に滞在することになる。そしてブラッフとともに(召使のペネロープを連れて)ブライトンを去ってゆく。

 <月長石>の物語についてクラックが語る部分はこれで終わり、次にブラッフが証言することになる。レイチェルの婚約破棄の背景はブラッフの証言によって明らかにされる。クラックはこの後金融市場の変動のために僅かな財産さえも失い、英国からフランス(ブルターニュ地方)に移住するという悲運に恵まれる。ゴドフリーが仲直りしようとした婦人委員の遺産がクラックのもとに転がり込んでいれば事件の展開は違ったかもしれないのだが、そういうことについて彼女は一言も書いていない。偽善か、愚鈍か、ただのやせ我慢か。

 最初の証言である執事のベタレッジの手記に出てくるように、ハーンカスル家の3姉妹の長女アデレイドは大富豪で公爵位をめぐる訴訟を起こしたブレークと結婚し、二女のカロラインは失恋の末銀行家のエーブルホワイトと結婚し、三女のジュリアはヴェリンダー卿と結婚した。長女と三女は自分たちの階級に見合った相手を選んだのだが、二女はそうではなかったという経緯が物語に影を落としている(その後の英国社会の発展の中で、銀行家が爵位や勲位を得たり、貴族や地主と婚姻関係を結んだり、あるいは自分自身地主になったりして上流階級化が進んだことを考えれば、どうでもいい話のようにも思える)。

 クラックはレイチェルが何かの事情で借金を作り、そのために月長石を自分で隠して質入れしたのだというカッフの推理を信じている(彼女への敵意がこの推理を助けている)だけでなく、このことが婚約の承諾と破棄の過程に影響していると考えているようなのだが、果たしてその通りであろうか。
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