三枝充悳『インド仏教思想史』

12月29日(日)晴れ、場所を選ぶと、富士山が見えるくらいに空気が澄んでいたが、ひどく寒かった。

 12月28日、三枝充悳『インド仏教思想史』(講談社学術文庫)を読み終える。12月24日にこの本と、岡崎勝世『科学vs.キリスト教』(講談社現代新書)を買った。クリスマスを迎えて、人生と宗教について考え直してみようと思った――というのは、格好のつけすぎかな。他に読みたいと思うような本が見つからなかったというのが正直なところである。

 考えてみるとこのブログで仏教関係の本を取り上げることはあまりなかった。宗教に関心がないわけではないが、どの宗教に興味をもつかには波があるようで、ある時期仏教関係の本を読んだり、放送講座を聴いていたのだが、現在はあまり興味がない。母の葬儀は仏式で行ったし、お寺に墓参りにも出かけているが、それ以上のことはしていない。

 三枝充悳(さいぐさ・みつよし、1923―2010)は宗教哲学者、仏教学者であり、比較思想にも関心をもっていたという。あるいはどこかでそれとは知らずにであっていた方かもしれない。この書物は『インド仏教思想史』と銘打たれている。インドでは哲学と宗教、体系的・論理的な思索と解脱と救済を求める営為が区別されないのが特徴であるが、宗教が思想の主流となった時代もあるし、哲学的な思索が優勢になった時代もあるという。

 ここでは、インドにおける仏教の発展を初期仏教、部派仏教、大乗仏教の3つの局面に分けて、それぞれを代表する経典の内容が哲学的に分析・概観されている。もちろん、思想史である以上、思想そのものの変化に加えて、インドの歴史との関係は考察されているのだが、そういう部分はごくわずかに留まっている。これは「インドには歴史がない」といわれていることと関係するのであろう(著者はこのことについては述べていない)。それでそれぞれの思想が展開された背景をなす人々の生活や、その中での苦悩や願望というものが今ひとつ描き出されていないという欠点はあるが、その代わりに現代の我々の経験に引きつけて分かりやすく問題を解説している部分が多く、仏教について知る、あるいはあまりはっきりしない知識を確かなものとさせる手掛かりとなりそうである。

 特に印象に残ったのは「初期仏教」に関連しては、仏教の根源は「苦」に直面するところにあるという主張。「苦とは、望んだものでもなく、願ったものでもない。否、反対に、避けようとして避けられないわたくしたちの本来の姿なのである」(66ページ)。著者はさらに「苦」は現代の言葉で「自己矛盾」ないし「自己否定」と言い換えられるともいう。人間は自分の中に自分の意志では動かせないものを抱え込んでいるという。これはたしかにその通りであると実感できる(その割には直面せずに逃げているところが多い)。

 「部派仏教」が次第に教団内部の問題に心を傾け過ぎて、大多数の世俗の人々の気持ちを思いやらず、離れていったことから大乗仏教が生まれてくるという。「宗教はたんに一部のエリートだけのためのものではなく、専門家ばかりをめざすものであってはならない。苦しみ悩むすべての人間、すべての生命あるものに、ひろく開放されていなければならない」(114-5ページ)。

 「大乗仏教」をめぐっては法華経とナーガールジュナ(龍樹)についての記述が詳しいように思われる。仏教とはその名のごとく、仏陀の教えであるが、「大乗仏教」の「如来蔵・仏性」の思想になると、一切の生あるもの(一切衆生)に可能性としてではあるけれども、仏になる可能性が認められるようになる。「こうして、仏教は、(前の意味の他に)仏に成る教えという意味をもつことになる。このような思想は、まったく仏教独自の思想であって、キリスト教にもイスラーム教にもないし、またそれらの教義上ありえない」(204ページ)。

 著者は仏教だけでなく、キリスト教やヨーロッパの哲学についても言及しながら、インドにおいて展開された仏教の思想の概要を分かりやすくまとめている。仏教とジャイナ教の共通点や弥勒菩薩とその信仰がイランのミトラ神と結びつくことなど、新たに知ったことは少なくない。インド仏教についての通史的な知識を得るという教養的な意味に加えて、自分自身の修養の出発点ともなりうる書物である。
 
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